フロイドの狂気日記

時は流れ、曲も終わった。もっと何か言えたのに。

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男らしさという社会の連帯責任

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男だって弱くていいだろ - billword’s blog

 

女らしさを押し付けるなという主張のカウンターに男らしさも押し付けるなという言説がある。リベラルでかしこまった人たちはそういうことを言う。こればっかりは生物のDNAの影響から逃れられないところもある。

 

体が大きくて力持ちな人たちは怖がられやすい。小さな男は舐められやすい。生きていれば経験からそういうどうしようもない違いを知る。小柄な女性は男からの有象無象の圧力を感じるし、スタイルのいい女性は性欲の標的になりやすい。愛想のいい女性は良い女性として扱いを受ける。

 

同じように、主導権をスマートに握れる男性は素晴らしい。筋肉や攻撃性も魅力に映るときがある。そういった特性も異性から需要があり、同性からも尊敬を集めたりするケースがある。誰かが得をしている反面、不愉快に感じる人達がいる。最近では「不愉快に思っている」という主張をして、今までまかり通ってきた常識を覆そうとしている人々が増えてきたように見える。

 

彼ら、彼女らが「不愉快だ」と思っていることが、別の人々にとって「愉快」ということもある。僕らは連帯責任を負っている。誰かの要望が、誰かの不興を買う。男、女という性質は一つの生き方にまとめるには大きすぎる。

 

男らしさを捨てなさい、というのは「利権を捨てなさい」というに等しい。人類全体に主張するには利益を得ている人たちが多すぎる。解決策は一つだ。分裂した社会、階層で生きることを認めることだ。僕らは常に違う性質を持った人たちで集まって暮らしている。だから君が嫌だと思ったことが、誰もが嫌だと感じることではない。

 

「男らしさを押し付けるな」という人々は「男らしさを押し付けるなと押し付けるな」という人々に反論はできるのだろうか。「男らしく生きたい」と思う人々がそれを望んでいるのに、そうありたくないと思う人々が主張を制限しようとすることは正当なのか。はなはだ疑問だ。

 

 

一つにならなくていいよ、認め合えばそれでいいよ

桜井和寿は歌うが、これはとても理想的だ。

 

男らしくありたくない人はそうやって生きていけばいい。男らしくありましょうというCMがあってもいいし、男らしさを捨てましょうというCMがあってもいい。不愉快だから主張を制限しましょうというのはまったく無理解で潔癖だ。「個人の生き方」は自由だ。押し付けあうのは良くない。

 

僕個人の意見で言えば、男らしさから逃れましょうという人々がこの社会で開放されることはないと思う。どうしたって攻撃性を帯びた人々から身を守るのは対抗できる攻撃性を持つしかない。あるいはお金を持って、そういった人々をなんとしても生活圏から排除する自衛力。

 

不愉快だ、と思った人が次々にでてきては生き方の制限をし始める世の中はどこかおかしい。できれば「男らしさ、女らしさ」を捨てた生き方のメリットやライフハックを伝導すべきではないだろうか。

 

捨てるったってどうやったらうまいこと捨てて健やかに生きていけるんだ、と。現状は「お前ら捨てろ」なわけで、これからは「俺は捨てた」というフェーズに入ってよいんじゃないか。他人を変えるのは難しく、自分を変える方がたやすい。

 

そういった縛られない生き方で得をしている、という認識が広まれば自然と同類が増えていくだろう。現状は不愉快さの押し付け合いだ。

 

連帯責任を取らされる不愉快さの解決は、自分の生き方を開示し、認め合う人たちを増やしていく。徐々にその小さな世界が出来上がっていけば、逃れられるちょっとした場所ができて、男らしく、女らしくと言われても気にならなくて済むのかもしれない。

 

なぜなら帰る場所があるのだから。