フロイドの狂気日記

時は流れ、曲も終わった。もっと何か言えたのに。

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こんなことしても意味がないじゃん、と思ってしまう不具合

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日常が過ぎることに恐怖を感じる。延々と変化のない日常に恐怖を感じるのを振り払うために何事かをしようと思い、ある文章の翻訳を始めた。ぶっちゃけ後悔するぐらいの量でまだ3分の1も訳せてない。

 

僕はいつでもそうなのだが何事かを始めると遅かれ早かれ「こんなことしても意味あるのか」と考え出す。大抵のことに意味などないし、続けていればいいこともあるかもしれない。例えばノーベル賞を取るような人たちなんてのは、意味があると信じ切っているか、意味があろうとなかろうとやりたいからやるのかもしれない。クラゲを来る日も来る日も観察してノーベル賞を取った下村脩氏のような人もいるのだ。クラゲを観察しながら、これに意味はないかもしれないなんて思っていたのだろうか。

 

研究者ともなると、やっぱり好きでやっている人の方が多いんだから、迷いはなさそうだ。そういうことはすごく大事なんだと思う。これに意味はあるのか、などと問うこと自体がナンセンスだ。一歩一歩やっていくことが大事なんだろう。

 

という結論自体を理解していても、何かするたびにゴミみたいなことをクソみたいにしているんだという疑念が頭をもたげる。それが運動であれ数学であれ読書であれ英語であれきっとすごく意味がある。確実にあるはずなのだが、いややっぱこんなのして何になるんだよ、と考え始める。もはや不具合だ。

 

銀の銃弾も万能薬もないように、本当に素晴らしい意味のあるグレートなことをするには取るに足らないかのように見える修行を延々と繰り返す忍耐が必要だ。まさしくそういう精神性を持つことができずに30代も超えた僕は取るに足らないことに向き合うことができずに苦しんでいる。

 

アンタもそうだろう。僕は知っているんだ。ちょっとばかり勉強をしようとするがすぐに辞めてしまう。もしくはある程度の形になる前に全く別の物に手をだそうとしたりする。英単語の勉強だって気がつけば1週間ほど間隔があいたりする。そして何もしなければしないで空白の日々が犯罪履歴のように見えてくるし、アウトプットにせよインプットにせよ何かしらせねばならないという強迫観念は強くなる。同じ日々を繰り返すなと警告され続けている気がする生活。だがその一方で、ほとんどワンパターンと言ってもいいぐらいの今日を過ごしている。例え牛歩であってもやらないよりはいいのだが、その牛歩さえ「こんなことして何になるんだ」というバカの正論によって阻まれてしまう。

まずそのふざけた幻想をぶち殺す必要があるというわけだ