フロイドの狂気日記

時は流れ、曲も終わった。もっと何か言えたのに。

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遺伝子による人生のアルゴリズム

中卒引きこもり歴6年の姉が大卒公務員の男と結婚した。

男性ホルモン値高い女子選手 出場制限前の最後の大会で優勝 | NHKニュース

 

遺伝子

 

この恐ろしくも不可分な要素の研究が進むことで、人生にボヘミアンを感じるようになった。結局のところ最初から最後までそれなのか、と。背の高さ、太りやすさ、顔の造形、持病などなど生まれながらに決まっていることは枚挙にいとまがない。一部整形だとか科学の力で多少どうにかできるところもある。金がなければどうにもならないし、どうやっても解決不可能なこともある。

 

生まれ持っての性質というのはどうにもならない。選べるわけでもない。親の性格、資産、ルックス、性別、異性愛者かそうでないか。プラスの意味でもマイナスの意味でも。僕個人で言えばまあそれなりに満足だ。極端な不満はない。完璧でもないが、あまり贅沢を言ってもどうにもならないものはどうにもならないのだ。

 

ところが、極端なハズレの遺伝子というのはあると思っていて、例えば生まれつきの糖尿病などは辛いだけで得はない。平均からかけ離れた身長、ボーダーと言われる知能指数が障害者スレスレだったり、若薄毛。現代的価値観から考えて不利になるような遺伝子は全てハズレだ。利益をもたらさない。アトピーなら定期的に皮膚科に通うアルゴリズムが組み込まれ、糖尿病なら透析、低身長なら常に世間の人たちに圧迫を感じるし、超高身長なら目立ち続けることになる。そうやって人生に不可避のアルゴリズムが組み込まれてしまう。

 

マイナスだけでなくプラスの遺伝子だってある。それが上記の記事で一般的な女性に比べて男性ホルモンが桁外れに多い女性だろう。大昔の牧歌的な基準、体が男だから男、女だから女というものではなく、男性要素のある女性、女性要素のある男性と分けられるようになってきた。男性女性という分類そのものが時代遅れになりつつあるなかで、じゃあどうすれば平等なんだ、という難題が首をもたげる。じゃあ一切平等じゃない方がいいというのが解答になるか。男性も女性も女体も男体も遺伝子も一切無視して人間として競争すべきか。フェミニストの願望とは違って男性と女性の身体能力差は明白すぎるほどある。最初から不平等にできている。当然だがプロスポーツの世界で男女混合にしたらほとんどすべての女性に表彰台に上がる可能性は消える。

 

結局の所、不平等は最初から決まっているのか。良かれ悪かれ不平等社会不平等人間。だが金持ちに生まれた人間が単純に成功者になるという世界でもないところがおもしろい。努力、環境、運。人生を左右する大事な要素だ。

 

とはいっても生まれたときから決定的な差を持って生まれた人はいて、ノイマン型コンピュータを生んだ科学者ノイマンに努力で追いつくことなんて不可能で、同時代の天才と言われた科学者達でさえノイマンには及ばないと言われるような男もいるのだ。逆に手足が動かせないとか、時間がどれだけ経とうとも6才児ほどの知能しか得られない人もいる。どこで線引するかはともかく、本人がこれ以上無理、生まれ持ったひどい環境や能力をカバーできる努力なんて無理、と言ってしまうと試合終了である。それ以上に恵まれた人たちがもっと頑張れというのは酷だし、勝者の戯言にしか聞こえるまい。

 

そんなわけでどの程度遺伝子差が生まれ持ってあるかで、人生の豊かさの可能性さえも失うことがある。だからといって細かい差について法律と福祉で吸収してくれるわけではなく、個別にカスタマイズする法律と福祉など論理的に不可能なわけで、自己責任で処理されるのがオチである。

 

この遺伝子による不平等は科学的な知識がそれっぽく広まるにつれて、何となく不満、何となしにやる気を削がれるという精神状態や厭戦気分につながるように思う。だからといって努力なしに成功はほぼありえないし、大それた成功でなくても努力や学習で多少の生活向上はありえる。諦めないことは肝心ではあるが、遺伝子ガチャに大負けした人にとっては気休めにもならないのだろう。