フロイドの狂気日記

時は流れ、曲も終わった。もっと何か言えたのに。

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Uber Eatsに見る信頼を構築しない社会

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配達遅延:Uber Eats配達員が石野さんのつけ麺を捨て置いたトラブルについて|新米Uber Eats配達員|note

UberEatsで1ヶ月働いたので配達員の立場から見た良い点と悪い点を書いて

 

ここに来てUber Eatsに関するあれやこれやが話題になっている。僕はUberという会社そのものを疑っていたので利用したこともないし、働くこともないだろうと思う。ただ2年前イギリスにいたときにはみんなナチュラルに使っていて、日本でもようやく浸透してきたんだなあと感慨深く思った。

 

ところでこの手のwebサービス的なものというのは、人間同士の信頼というものを限りなく存在しないものとして取り扱っていて、なんだったら信頼構築をゼロとしてサービスを作っている。これはどういうことかというと、本来なら僕らは顔を見知った人同士で話したり、行動をともにしてお互いの信頼を勝ち取っていく。あいつは信頼できる、という見えない関係性を構築するということは本来非常にコストがかかる。だがUber Eatsはそこを一切考慮にいれていない。出前は口に入れる食べ物を届けてもらうものなのだから、究極的な信頼行動そのものである。毒が入っていたり、腐っていなかったりを担保しなければ誰も頼まない。その上で時間だったり食べ物が崩れていなかったりなどの担保もしてほしいものだ。古来からある出前は作っているところで働いている人が届けてくれるサービスだったが、Uber Eatsは届けるというサービス部分を切り離してマッチングさせるようにしたものだ。

 

ここはテック企業的な考え方による運営があって、人との信頼構築の部分をテクノロジーでゼロコストにしてしまおうという思想が見え隠れしている。例えば評価システムを導入したり、配達者と客をお互いブロック可能にすることで、ある種信頼構築の手間を省いてしまおうというわけだ。テック企業について詳しくない人やITの本質を理解していない人たちは、単なる出前アプリがユニコーンだのともてはやされていることを不思議に思うかもしれないが、基本的にIT企業が巨大になるポイントとして、何らかのコストを大幅に削減して巨大化できる可能性という部分がある。Uberはこの信頼構築の手間を完全に省いてしまうというのが野心的なところなのだ。さらにスキマ時間で働けるというところも売りだが、この点についても信頼をゼロコストで構築しようとしている点でもある。

 

例えばあなたが配達者を店で雇うとすると、注文がなくても店に待機させ、他のことをさせながら当然給料も払う。ちゃんとした人間かを見極めて、道に迷わず食事を問題なく届けられる人間かどうかを判断しなければならない。問題ある人間ならクビにしたりしないといけないかもしれない。Uberはこの雇用コストを完全にゼロにしているので店側からすればメリットがある。そして本来の信頼できる人間かどうかはシステムで管理し、点数をつけることで判断している。ところがシステムで人間の信頼を数値化するにも、とりあえず働かせてみなければわからない。仕事をさせてみて顧客からクレームがきたり、あるいは配達人が顧客にクレームをつけることで、顧客と配達人の双方の信頼をデータベース化していくのだ。

 

本来の出前の信頼というのは店側が負担してきたものだ。最初からおかしな人には配達させないという前提での安心安全の出前である。言い換えればUberは配達人との信頼関係構築を店側と結託して客に転嫁したとも言える。客は送料を上乗せして金を払い、そして信頼のデータ化に協力している。店側は今まで悩ませていた雇用のキープをせず、食事を作ることのみにフォーカスできる。

 

だがここでUberについて文句を言うのではなく、客の愚かさについて述べたい。もともとUberが客と店の自動マッチングで信頼をゼロコストにしてゼロにした部分に値段をつけ店からピンハネするという、そういうビジネスモデルなのである。ところが客側は信頼を担保した今まで通りの出前として利用している。だからクオリティが低かったときに文句を言う。

 

だが客側は自分たちが今まで負担してきて、そしてその負担を捨てたことによりクオリティ低下を招いていることには気づいていない。ようするに「信頼できる店は自分で探せ」ということである。我々はUber Eatsがない世界なら、ラーメンはラーメン屋に頼みピザはピザ屋に電話して頼むということをしてきた。そこには以前食べたことがあるとか、評判が高いらしいというところを個々の頭のデータベースからひねり出してきたはずだ。Uberを選ぶのは一つのアプリでたくさんの選択肢から注文できて追跡できるとかメリットがあるから選ぶのだが、その時点で信頼構築を外部委託されていると言える。

 

信頼できる店を自分の頭の中から選び、電話番号を調べて注文するというコスト部分をカットしたのだが、なぜカットできたかというとUberと店とが信頼構築の手間を捨てて配達人と客のやり取りをDB化することで、つまり信頼を仕事中に作っていくことにより客と配達人に外部委託することに成功したのだ。本来なら信頼構築を終えた配達人を使うのではあるが、その信頼構築部分は配達人と客との間でやってくれよ、ということなのだ。そしてそれがそもそものビジネスモデルであり、そのおかげでアプリひとつで注文する利便性を手に入れた、ということになる。

 

そういうわけでお客が配達人のクオリティが低いと嘆いたとしても、それはあなたがカットしたコストをUberが拾い上げて別の形で負担させているんですよ、ということなのだが、気づいている人はあまりいないようだ。出前でハズレを引きたくない!というなら、信頼ある店をあなた自身が探し、脳内でデータベース化していけばいいのだ。

 

だが希望はある。信頼ある配達人とめんどくさくない客のデータはUberが一元管理していっているので、たくさんの客と配達人が嫌な思いを繰り返し、やがて良い客と良い配達人のデータが積み上がっていく。やがてはまともな客とまともな配達人が使うサービスになっていくのかもしれない。

 

ここまで読んで「それはおかしい、共有部分に食事を捨てるのは犯罪だ!」と思うかもしれない。だが僕から見れば信頼関係構築を完全に意識しなくなった人間達にこそ責任があると思う。大金を入れた財布をよく知らない人に預けても盗まれないか?というチャレンジに似ている。財布は肌見放さないし大金は「信頼」ある銀行に預けるのが普通だろう。つまり犯罪に巻き込まれないための振る舞いというものがあるというわけだ。

 

信頼構築をすっ飛ばしてもまともなサービスを受けられると思うなら、完全な現代病だし、広告が歌う利便性のみに気を取られてサービスを利用しているならすでにあなたの脳ミソは現代的な不具合を有しているとも言える。

 

僕はこなれたサービス以外は使わないようにしている。口に入るものだとかお金が関わることは特に。ところが世間では案外、自分が負担すべきコストは意識しないものだし、CMで広告があって話題だからまともなサービスが受けられるべきだ、という前提でいるらしい。企業も広告も騙してくるのだから、怪しい新しいサービスに飛びつかないというのは無駄金を使ったり、嫌な思いをしないための鉄則ではなかろうか。

 

ようするにUber Eatsは食中毒になる前に使わないほうがよいのでは、ということである。