フロイドの狂気日記

時は流れ、曲も終わった。もっと何か言えたのに。

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アメリカだから文化的対立が起こるんだろう

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恐ろしい対立があったもんだと思う。実にアメリカ的だなあと思う。少数派といえども黒人12%、ヒスパニックも17%と無視できない数がいる。そのためアファーマティブ・アクションなどもあるし、それに対して被害意識を持つ白人も出てくる。

 

日本はどうか。少数派民族は本当に本当に少数だ。全外国人を含めて2%であり、その中では中国や韓国など東アジア系が最も多い。要するにラテン系も白人も黒人も普通には知り合いができないほど少ないのだ。そのため人種間対立が先鋭化しない。映画監督もアニメ監督も原作者もほぼ日本人だろう。もしかしたら親が外国人というのもありうるけれど。

 

最近では、人種配慮だけでなく、ルッキズムの問題も出てきた。そしてアメリカやヨーロッパの会社が作ったゲームなどでもその影響が見て取れる。Horizon Zero Dawnという名作の呼び声高いゲームがある。ところがその主人公は女性でブッサイクだ。とはいえ見れないほどではないという絶妙なライン。最近では映画もゲームでも過剰に美人なメインキャストは見なくなった。あまりにも美男美女だと怒られるということがあるからだ。

 

そしてこの点においてほとんど、全くと言っていいほど影響を受けていないのが日本だ。有名メーカーでさえ黒人は出しても、主人公格に絶妙なブスやブサイクな男は出さない。スクエニやアトラスは古典的な日本のメーカーだ。ペルソナや、あるいはFFの最新作が出るたびにタイプの違った美男美女キャラがでてくる。それに対して強烈なバックラッシュがあるわけではない。あるいはペルソナに人種バランスが取れてないと叩くこともない。白人のハーフが出てくるけど。やっぱり美しいデザインこそが主人公グループなのだ。敵キャラは明らかに見苦しいのが出てくるが、所詮は倒される悪人である。

 

日本の文化とは美しいものを賛美するということなのかもしれない。そこにポリティカル・コレクトによる批判とその反映はなさそうだ。BL雑誌から女性向けアニメ・ゲーム・映画も同様で、とてもカッコいい若者がキャッキャしているだけのものが売られているし、それを純粋に楽しんでいる人々がいる。僕はこういう日本が好きだ。

 

最近の賞はポリコレを意識しすぎている!というアメリカの論争はまさしくアメリカの国内問題そのものなのだ。日本ではなろう小説と揶揄される作品群だって消費者がいて、軽んじられても棲み分けがきっちりできている。なろう小説が芥川賞に出されないのはおかしい、などと本気でいう人もいない。

 

日本はこういった点で極端すぎるほどドライだ。作品は限りなく自由が保証され、見たくなければ見なければいい、が通じるとも言える。これは日本人があまりにも権威主義だからではないか、とも思った。例えば何か賞では運営者が神のように扱われ、それらが基準を作る。そうしてその基準が気に入らないのであれば去ればいい。このような考え方は日本の多数派だと思われる。気に入らなければ自分で何とかすればいい、という精神だ。非常に冷たく、議論の余地がないように思われる。融通が利かないとも言えるかもしれない。

 

その結果、本屋大賞だとかこのラノベがすごい、といった新しい基準、新しい対象の賞が出てきて、数年で権威化したりする。冒頭の記事の論争は、ヒューゴー賞という権威にすがりついているように見える。独立した精神で、白人の保守派が賞を立てたっていいがそれもなく、ヒューゴー賞自体を変化させようとする人々にある意味関心してしまう。

 

アメリカではアカデミー賞ゴールデングローブ賞のように固定化された権威を盲信しすぎているように思うし、そこの基準を時代によって変化させるべきだという考え方があるということなのだろう。日本人は古くなったら捨てればいいと思っている。ポリコレが賞に変化を強制させるほどの動機を持たない。だから保守的とかウルトラコンサバティブとか言われるが、それでやっていける程度のヌルい国ではあるようだ。

 

Horizon Zero Dawn 通常版 - PS4

Horizon Zero Dawn 通常版 - PS4

  • 発売日: 2017/03/02
  • メディア: Video Game