フロイドの狂気日記

時は流れ、曲も終わった。もっと何か言えたのに。

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しょっぱい人生に角砂糖的な

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Zoom飲み会が流行っているということで、アル中の友人たちと何度かやっている。子供ができたり家が遠くなって飲み会に全然来なかったヤツらの出席率が高く意外だった。飲み会が嫌いなんだと思ってた、と僕が言うと、家が遠くて行くのがめんどくさかっただけ、みたいなことを言われて、コロナがなければこんな事することもなかったから悪くないよな、みたいな話になった。家で飲むと安くあがる。二次会もないから眠くなったらそのまま切って寝ることもできる。帰り道もないし、タクシーもないし、水商売もない。そりゃあ経済も回らないよな、って思うけれど、この気楽さも案外悪くないもんだ。Zoom飲み会の中で僕がかつてのバイトについて話した。Amazon倉庫のバイトであったり派遣の単調な単純作業について、僕は全然向いていないと言った。今でも思うんだけど、同じことの繰り替えしというのが苦手だ。人間関係も同じ、出社場所も同じ、作業も同じ。どうやって生きろっていうんだ。

 

そういう意味でプログラマは悪くない。デスクに向かい続けるのは同じだが、環境、言語などは変わり続ける。それにキャッチアップするのに疲れることもあるけれど、その気になれば相当複雑なサービスにチャレンジすることもできる。人生においてこういう存在意義を教えてくれる何かってのは必要で、受け身ではないチャレンジングな何かってのがあるといいんだな、と思う。Netflixを見たりやPS4で遊んだりしていると、どこか虚無が訪れる。最近ではあつまれどうぶつの森を1日何時間も集中してやったりする人がたくさんいるらしいが僕には無理だ。かつて小学生や中学生だったころはあれだけ広い世界のように思えて、何時間も集中できたゲームは今となっては幻のような思い出になっている。

 

2016年に独自ドメインとブログを始めて文章を書くことにハマって今に至るが、実はもうこの雑記ブログに対する情熱みたいなものはなくなった。2016年ははてなブックマークでの政治記事がまだおもしろかった時期だった気がして、それが2018年かそれぐらいには意見が偏りすぎている状態にどんどんなって、コロナ禍の今では僕の利用しているSNSサービスの中でもかなり見苦しいことになっている。僕は2010年代の、政治とネタとかがバランスがあってブコメも少なくてソーシャルブックマークとしての機能が主体だったような頃が好きだったけれど、記憶が曖昧だ。

 

とにかくその時のはてブは僕にとってきらびやかに見えて、はてなブログでしれっとそのキラメキに見えた何かに混じりたかったのかもしれない。「保育園落ちた日本死ね」のブームが2016年の初めの方だということで、僕はその熱気以後に参加したくなったのかもしれないな。2018年に殺傷事件が起こってからは、どうも下降路線というか、過激派たちの扇動しあいとなっている気がするし、はてなブログがバズるということも目に見えて少なくなった。ほのぼのとした記事も発掘されなくなった。そもそもがTwitterなどで話題のバズのネットワーク効果が異常に発揮されるようになって、誰もが同じバズに飛びつくようになって、まとめ記事が大量生産されてホットエントリに多重に入るようになると、あっという間に陳腐化して退屈になる。100日後に死ぬワニなんて最たる例で大量消費の教科書みたいなもんだ。

 

ブログ開始時のキラメキに既視感があるな、と思ったら小学生の頃のゲームと同じだ。確かに間違いなく子供の頃のゲームへののめり込みってのは、素晴らしい体験と心からの感動とが混じり合っていた。2010年前半のはてブにはそれに似た何かがあったのだろうと思う。MMOに初めて参加したときの高揚感とも似ていたし、ロンドンに初めて降り立った時の新鮮味もそうだった気がする。初めてのクラブのアルコール混じりの胸の高まりもそうだ。あの目が開ける感じとでもいうか、あれこそがしょっぱい人生の中で時折テイスティングできる甘い甘い角砂糖的な何かなんだろう。

 

とはいえこのような体験ができるのは機会を待たねばならない。似たような暮らしを繰り返していると、そういったチャンスはなくて、今までにしたことがない何かにチャレンジした時たまたま降って湧いてくる御神託のようなものだ。

 

僕は折に触れてにそういう角砂糖的な何かを探している。