フロイドの狂気日記

時は流れ、曲も終わった。もっと何か言えたのに。

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我々を豊かにはしないが偉そうにする知識人

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Twitterでよくいるのだが、やたらツイートが多くてフォロワーも万単位でいる知識人っぽい一般人というのが癪に障りだした。以前から為になることも言うんだけど、専門分野で間違った事を言う人たちに容赦なくリプライし、場合によっては見下したりバカにしたりする人々というのもいて、だんだんと面倒くさくなった僕は何度目かのアカウント削除をした。

 

ゲームログイン用みたいなアカウント以外に何度もROM専用アカウントをとったりとらなかったりしていたんだけれど、ネットの言論空間から離れたいと思って消した。最近政権周りで学者が締めあげられて、例によって手続きを無視したやり方なので、良識的で頭のいい人たちから総攻撃を受けている。

 

こういう展開何度目だよ、と思いつつ反知性主義に思いを馳せた。最近反知性主義的な人々に対して感情的な共感をするようになってきている。というのも知性的な人たちの攻撃性と強者のような振る舞い、そして特別な自分とでも言いたげなツイートなりコメントなりにほとほとうんざりしているからだ。

 

知性的な人たち主導の世界において、末端の我々はちーっとも豊かにならないのだけれど、なんでお前らはそんなに偉そうなのだ?と感じる。ネット時代が始まってからはマウント合戦に拍車がかかっていて、ただただうんざりするということがよくある。

 

学者たちが菅政権のあれやこれやについて批判するのは結構だが、その批判者の中には末端のことなんぞなんとも思っとらんだろうなあという人々が多すぎる気がする。どれだけ学者が国益について語り、政権の瑕疵について怒っても、彼らの言うとおりにしたところで我々も国家も豊かにならんということは決定づけられているように思う。

 

例えば日本では博士号持ちのエリートが軽視されている!という意見があって、ごもっともだが、超実力主義で博士号持ちが優遇されまくっているアメリカがどうかというと、末端は日本より貧しいんじゃね?と疑問を感じる。つまるところエリートを優遇したりしても末端は貧しいし、日本のように談合社会であっても貧しくなる一方ということだ。

 

日本は生産性が低くてイノベーションが起こらないぞ、とか、研究者を冷遇した結果国家が弱体化するんだぞ、と言われたところで、現在進行系で世界ナンバーワンでイノベーション起こしまくっているアメリカがどうなっているかというと、やっぱ羨ましくねえわと思う人々がほとんどではなかろうか。

 

つまるところ手続き的な瑕疵について批判するのがいかに正しかろうと、彼ら学術会議とやらが消し飛んでも日本の貧しさは変わらんだろうなという諦めのようなものが非知性的一般市民にはあるのだろう。そして知識人たちはそんな現実を変えようと立ち上がることはなく、ネットで頭の悪い人たちに啓蒙している気になって、そこで完結してしまうのだ。

 

知識人はその欺瞞に気づいているのだろうか。いくらちょっと知性的だからといっても何か発言し続けるメンション中毒の都内勤務ホワイトカラーとネットで意見しない平凡な土木作業員では社会的な存在価値さして変わらないように思える。前者は知性的だからちょっと社会的に有利な立場にいたりするのがより一層憎しみと対立を煽るように思う。お前ら偉そうにしているけど、だからといって末端の豊かさを担保したりはしねえだろ?と。

 

それどころか少し世界を見渡せば、民主主義的エリート国家、独裁エリート国家、寒い国、暑い国、多民族国家、宗教中心国家、どれを見ても貧しい人たちは顧みられないというような現実がある。

 

つまるところ日本の知識人たちが何を言っても、手本となる希望ある国は存在せず、何らかの説得力ある新しいモデルを提示しない限りは、学術会議がいようがいまいがほとんどの市民には恩恵がないような気がする。論理的で知識ベースのコメントというのは、上から目線に感じられやすいし、言い方次第ではただただウザいだけということなのだ。ただそれだけが虚しく響く。

 

自民党のお偉いさんが一般市民のことを考えていると思うのか!と怒られそうだが、彼らの素朴なバカさというのは、その辺でよく見かけるようなマヌケさがある。自民党に投票することはないが、彼らが日本のパンピーに対して上から目線で指導してやるぞ、というふうには見えない。それどころか発言は善良な市民よりバカかもしれない。

 

学者たちが頂点の社会だと、彼らは法的にかつ平等に対処するだろうから、同じレベルで知性を持つ人々はとても恩恵を感じられる社会になるだろうが、一般市民はとりつくしまもなさそうだ。GoogleNetflixがいかにポンコツを排除しているかを考えれば、学者中心社会のなれはてがどんなものかは想像に難くない。

 

一方で自民党の人たちなら媚たら何かくれそう、というぐらいには無能者とも密接につながっている。というより彼ら自信が無能者の一員だろう。知性的なブックマーカーに批判されるふるさと納税なんかは、田舎のどうしようもない中小企業を潤していたりする。冷静に考えてAppleが儲け続けるよりはいいんじゃないかと思ったり。

 

ニューヨークがAmazon誘致を拒否したが、ああいう超企業が雇用の創出や投資の増大の見返りにどれほどの税的優遇を要求しているかを知ると、もはやグロテスクでさえある。ニューヨーカーの反対派は彼らがやってくると家賃の値上げは避けられず、ホームレスが増え続けるカリフォルニアの現状を知っていると、博士号持ちの知識人たちのインナー・サークルができあがることを知っていたからだろう。

 

とても頭のいい人たちを厚遇する社会は素晴らしいと純粋に信じる人は自民党以上の利権屋のように思える。アメリカや中国を見れば分かる通り、再分配が機能しなければイノベーションがあっても末端には何の意味もないのだ。それどころかUberのようにテクノロジーの奴隷になる未来だけがある。

 

自民党は生まれながらの地盤持ちの集団だが、出来損ないの集団でもある。政治家の息子たちの中で有能なのは企業の良い立場にいたりする。そして出来損ないが傲慢な態度を振る舞っても、出来損ないであることは隠しきれていない。そこに安心感と共感がありそうな気がする。やはり我々日本人の代表なのだ。

 

立憲民主党などの善良なエリートが権力層に取って代わっても日本は豊かにならないだろうという確信が蔓延している。我々が等しく豊かになる展望がないのであれば、頭脳に恵まれた彼らを優遇したり権力を与える必要性なんてあるのだろうか?

 

貧しくなるなら皆で貧しくなろう、というのは自虐的すぎるだろうか。知識人がふんぞり返る貧しい未来よりは、ノータリン政治家と踊り狂う方がマシな未来か。

 

何れにせよ自民党が勝ち続ける世界線は続きそうである。