フロイドの狂気日記

時は流れ、曲も終わった。もっと何か言えたのに。

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ナーロッパ批判という、なろう小説への嫉妬

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■端的に

 

練られているとは決して言えないナーロッパ舞台のなろう小説を批判する言説というのは、だいたい「俺の頃の部活はもっと厳しかった」という高校生の愚痴のようなものだ。

 

■以下ぐだぐだ

 

個人的になろう小説はweb版のタダで発表されているものさえ一部しか読んでおらず、購入意欲はさらにない。一部アニメは見たことがある。が、たいていは1期だけか、数話ぐらいで嫌になる。なるほどナーロッパ嫌いがいるのもうなずける。手を抜いた設定、使い古された種族、ご都合主義の展開、あからさまな性描写で読者を釣り上げようとする下心、読んでいて何がいいのかわからない。

 

だが、これを憎悪まみれでこっぴどく批判する気にはならない。

 

例えば、変顔すればずっと笑ってくれる赤ちゃんのお守りをしている人に、君は笑いのなんたるかをわかっていないのだ、と高尚ぶった演説をするのは滑稽だろう?

 

つまりなろう小説とはそういうものなのだ。ところが、自称お笑い通が赤ん坊への笑わせ方にイライラすることはないだろうが、設定の凝った長文を読める小説通はなろう小説に怒り狂ってしまうことがある。

 

「嫉妬や、これだけは言える」

 

何がおもしろいかわからない言葉で子供を笑わせる親に対して批判する気がないのは、それで大金を稼げるわけではないからだ。ところが、使い回しの表現と設定で書かれたなろう小説の中にはビッグマネーになるものもある。なろう長者である。

 

ソレが原因で、いかになろう小説で目立つものを書いて、出版社に拾われて成功するかを過剰に競争している現状もある。あまりにもサイクルが早く、設定のパクりあいから、表現の適当さ加減まで、小説らしい小説は一つもないようにさえ思う。というか、絵の描けない人たちによる小説の体をなしたブレインハック。ソシャゲ的に射幸心を煽るような、脳みそを溶けさせて、以下に快楽中枢を刺激するかだけを求めた自然成分なしのジャンクフードのように思える。

 

我々は高尚なことだけを摂取しては生きられない。なろう小説は読まなくたって、ブラウジングで延々と時間を潰すことはしていたりする。スマホを手放せずに、twitterやインスタで無限に時間を浪費している人と、なろう小説読者/作者に大差があるとは思えないのだ。

 

むしろTwitterは高度な議論をしている錯覚を起こす人が多いので、なろう小説のほうがマシじゃないか、と思うこともある。140文字の連続した攻撃的メンションと、バックグラウンドがよくわからない人たちによる嘘か本当か見抜きにくい知識、明らかなフェイクニュースにどっぷり肩まで浸かるよりは、知能指数0.5ぐらいのなろう小説のほうが害悪がないまで言える。

 

客層が違うのだ。マクドとコーラが一番うまい食べ物に決まっているじゃないか、と豪語する人に、フレンチの複雑な味について語るのは無意味だ。住む世界も、社会への解像度も求めているものも全て違う。

 

それになろう小説とはいえ、長文をまとめて書き続ける能力はその内容を問わず恐るべき忍耐力だ。必ず成功するわけでもないのに、なろう長者を目指すというならなおのこと、作者は強大な孤独と戦っているのは間違いない。売れないバンドマンやお笑い芸人の私生活の辛さと焦燥感なら想像できるだろうか?

 

なのでまとまった文章を書き続ける人を批判するというのは、個人的に意欲がでてこない。手を抜いて描くことができるジャンルなので競争が異常だ。賢い人にしかできないことは、頂点にたてなくても良い仕事があるが、大した能力のない者たちは数だけは多いので、底辺競争は熾烈を極める。なろう小説作家は費やしたその膨大な時間を他の分野に応用させることはできないので、なろう長者になれなければ、人に見せるのがちょっと恥ずかしい作品を量産した人でしかない。

 

底辺から抜け出した者達の中から抜きん出た人が豊かになっても、その後ろにいる恐ろしい数の敗れたものたちは、価値さえ見いだされない。そんな情景に思いを馳せたなら、ナーロッパという世界観への批判など起こらないだろう?

 

それどころか、薄暗い部屋でPCをカタカタさせながら、宝くじなみの確率にすがって、誰にも見いだされないかもしれない文章を書き続ける姿に対して、背中を押したくなる。

 

買わなければ宝くじが当たることもないものだよ、と。