フロイドの狂気日記

時は流れ、曲も終わった。もっと何か言えたのに。

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弱者救済の虚構の物語をぶち壊す人々

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先進国では社会的弱者、精神疾患患者、障害者、病人、働けない高齢者などでも、生きる権利がある。日本でも憲法で保証されている。

 

長い歴史の中で非生産者はみな集落存続の足手まといでしかなく、なるべく早く死なせるか、最初からパージするという期間が長かった。働かざる者食うべからずという考えは家族から国家にいたるまでの継続や存続に関わるので正しいとされてきた。戦後しばらくもそうだったが、ここ数十年で非生産者だろうがなんだろうが、生きる権利は自然なものである、誰にも不可侵である、という考えが浸透してきたので、バリアフリーだとか給付金だとかも制度としてある。雇用の障害者枠もある。不足かもしれないが存在する。こういうことに異論を挟むと白眼視されるのが先進国である証拠だ。

 

我々先進国住民が忘れかけているが、これはユヴァル・ノア・ハラリが言うところの虚構の物語である。非生産者でも生きていい、というのは我々が何十年もかけて積み上げてきた幻想そのものだ。それは「ある」ものとして作り上げたからこそ「ある」のだ。

 

だが一歩引いて考えて「非生産的な人間なんて必要なのか?」と多数派が考え始めたらどうだろうか。現実では何らかの生産ができる人々が多数派である。人によって生産量は変わるかもしれないが、大抵は労働力を多少なりとも提供できる。だが全くできない人もいる。そういう労働不可な非生産者は超少数派と言ってもいい。少数派だから多数派がちょっとずつ手を貸して分け与えて生きられるようにできると言ってもいい。

 

これをするのは虚構の物語のおかげで、非人道的手法によって完全非生産者を処分していけば、社会負担が軽くなるのは明白だ。だが、それをしないのが先進国である。ここに合理性はないのだが、合理的に見える理由付けを丁寧に、何度も繰り返して虚構の物語を作り上げてきた。異論を挟むなら差別主義者として逆にパージされるようにもした。

 

それでも多数派であるところの健常者や労働者が、際限なく犠牲になる、という合意はない。なので非生産的な人々も、見えない線引や遠慮によって、バランスをとっているように見える。大抵の障害者も病人も今風に言えば「わきまえている」というわけだ。

 

ところが「その幻想をぶち殺す」という人は時折でてくる

【魚拓】【社民党常任幹事】障害者様・伊是名夏子さんの過去の名言打線(超重量級)のソースを集めてみたwwwwwwwww:ハムスター速報

 

こういうニュースが出てくると、多数派が疑問を抱かなかった虚構の物語にほころびが出てくる。「なんでこんな奴らのために気苦労しないといけないの?」というわけだ。これは障害者などの非生産者にとって大変なことだ。死活問題といえる。

 

先進国における、労働できない人への配慮は多数派の「思い込み」によって支えられている。彼らがいなければ健常者だけでお気楽に生きていけるのでは?という疑問を社会良識や教育で消し去っているからこそバリアフリーが自動的に進んでいくのだ。100%リターンのない譲歩でしかないのだが「弱者を殺す社会はいずれ自分も殺しにくる」とか何とか言って飲み込んでいる。もしかしたら自分も非労働者になるかもしれない、という可能性でもって飲み込んでいる。実際のところは統計的にはほとんどが人生で労働を強いられる。働けなくなるときはだいたい死の直前だったりする。フォローされる障害者になりうる人は少数派である。てか非労働者が多数派だったら社会崩壊するよね。

 

存在するありとあらゆる権利は実は自明ではないかもしれない。多数派の胸先三寸で崩れるような前提ああるかもしれない、というのは時折思い出したいことである。