フロイドの狂気日記

時は流れ、曲も終わった。もっと何か言えたのに。

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人生好きなことばかりできるわけないぞ、という説教

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皆だいたい好きなことだけをして生きていきたいと思う。そういうことをポロッと口に出してしまうこともあるだろう。で、そこで中年以上の人生方向性が決まったオジサンが、そんなの無理だぜ、人生嫌なこともしなきゃなんないんだぜ、などと口にすることがあるかもしれない。僕も昔似たようなことを言われた気がする。会社の社員になって月1の飲み会とかの機会で、今の僕よりさらに年上のオッサン社員に言われたような言われてないような。

 

少なくとも過去に所属していた会社の社長の中に積極臭いオッサンがいたのは覚えている。可能性豊かな若者が好きな反面、嫉妬というかいわゆる最近の若モンは理論を振りかざすようなところもあった。今の僕は若者に説教をかます立場どころか接点もなくしてしまったから、説教臭い親父にはなりたくてもなれないだろう。だけど、やっぱり説教っていらねえな、と改めて考えた。

 

僕は今でもやりたくないことを避けて生きるようにして、自分がやりたいことを、継続してできることを生活の中心に据えるように頑張っているが、その結果、やりたくないことをやるようになった。ようするに本気で好きなことをして生きて行こうとすると、面倒なことや避けられないことも頑張れるようになるし、真正面から受け止められるようになる。これが延々と続く懲役刑のような会社員生活だったら、ひたすら嫌なことを避ける工夫をして評価を下げるつまらないオッサンになっただろうなあと思った。

 

今になって「やりたくないことをやる」という選択にも質があると気づいたのだった。好きなことをして生きていくと覚悟を決めると、やりたくないことも真面目にできるようになる。一方でその中心に据える何かがないときは他の全てが消化試合になる。なので「好きなことだけして生きていきたい」という若者がいたら「是非頑張れ!」というのが正解なのだろう。どうせ彼らは遅かれ早かれ現実の壁にぶつかるので。それでも好きなことをするために現実の壁にぶつかるのは幾分かマシなことのように思えた。

 

説教臭いオッサンというのが嫌われ者の象徴のようになっている現代だが、それにはちゃんと理由があるのだろうとも感じたのだ。自分の人生の妥協を振り返って、先回りして若い人に御高説打ったところで意味がないだろうし、放って置いても歳はとるし、歳をとればそれ相応の経験や妥協を知ることになるので、説教は無意味な行為そのものだ。生産性もない。なので若い人に出会うことがあったら、何も言わずに沈黙してやることが良きオッサンの態度なのではないかと思った。

 

メンターとして責任を取る気があるならその限りではないだろうが。