フロイドの狂気日記

時は流れ、曲も終わった。もっと何か言えたのに。

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アイデアに平等に投資しろという欺瞞的な考え

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一連のtweetの中によく聞く以下の文言がある。

 

「優秀そうに見えるアイデア」に全予算を割り振るのではなく、「全アイデア」に予算を均等に分配する方が好ましいという事がわかる

 

これを引用したブコメがスターを集めているんだけど、これって不可能ではないかと思った。それは平等性の担保ができないという、一言に尽きる。いくつか上げてみよう。2018年時点で博士号持ちの日本人は1.8万人ほど。これをベースに考える。

 

 

規模の不平等

1.8兆円の予算をとって、1.8万人の国内博士号持ちに1億ずつ配ることは金額的な平等である。これは紙とペンで難題に挑む数学者には十分かもしれない。しかしハイパーカミオカンデの予算が800億円だったことを考えれば、平等を担保した時点で大規模な実験は不可能となる。

ハイパーカミオカンデは特別な実験なのだから巨額予算を許すべきか?ならば清少納言のような古典文学の専門家が800億円の予算を要求してきた場合はどのように答えるべきだろうか。経済的ではないので古典文学に大量予算はつけられない、とでも?それはまさに今財務省経産省が一部の人に嫌われる「選択と集中」ではないだろうか。

 

タイミングの不平等

たまたま奈良時代の遺跡が見つかったので、大量の予算を要求するというケースがあるかもしれない。しかし同じ歴史学者でも、縄文時代弥生時代の遺跡が見つからないような時期がずっと続いた場合、一人の研究者の人生において、予算がたくさんもらえる機会が来ないかもしれない。この場合、研究者や研究内容にも平等性は担保されない。

 

税収の不平等

経済上の理由で大幅に税収が減る際に、予算カットを平等にすべきだろうか。例えば1.8兆円の予算を3分の1まで減らさざるを得ない場合、インパクトは大きい。6000億の予算を1.8万人で平等に分けた時、一人3300万程度であり、できる実験や調査はより限られるだろう。全アイデアを平等に分ける方がいい、ということを愚直に実現すれば、win-winどころかlose-loseになる可能性もあるのではないか?

例えば少数の宇宙研究者に6000億の予算すべてかければ国家がひっくり返るほどの発明や軍事的な発展が期待できるかもしれないという合理性と、全員が平等で小さい予算(各3300万/1.8万人)によるしょっぱい研究進捗を天秤にかけてそれでも平等を重視すべきなのか?

 

イデア数の不平等

ものすごい天才が100も200も素晴らしいアイデアを思いつく場合、全てに予算を提供するのが平等ではないか?しかしそれは当然研究者によって違うのでその時点で研究者間の不平等を招く。研究アイデアの実現予算は1人につき1つだとする場合、研究者の脳内で「選択と集中」が行われる。泣く泣く切り捨てたアイデアが大成功をもたらすかもしれないのに。それはまさに予算は平等に、で解決しようとしたことではないのか。

 

まとめ

要するに何がどうあっても「選択と集中」は避けられないということだ。

国家デザインとしてどの研究分野に投資し予算を提供するか、天才と呼ばれる誰に対して資源投下するのか、という政治家と財務省経産省が考えるのは全く間違っていない。

ネットを見てもそもそもどうやって平等を担保するのか、などという問い掛けをほとんどされておらず、真剣議論や啓蒙が進むようにも見えない。

研究予算の規模を大きくするという進言はできるだろうが、どれだけ予算を大きくしても、すべての研究分野に全員に十分な、ということはできないだろう。防衛用の兵器開発研究に膨大な予算をつけることの理由と、文化的保護から歴史研究を支援するのは貴賤の差ないはずだが、どちらにも平等な予算をつけられるとは思わないだろう。人によって違うだろうが、それによってつく差こそが「選択と集中」の第一歩である。

 

何が平等か?を考えることの忌避感も見られる。内心では平等の設計をしようとすれば不平等な取捨選択を強いられることを理解しているのだ。だから言わずに理想論に終始する。当然リアリスティックな政治では愚かな意見は無視される。

 

どこまでの平等を担保するか、それによる「選択と集中」は避けられない現実を直視した上で、規模や分野ごとの上限や優先順位を研究機関や国民が自ら決めねば、その判断は財務省による選別を待つだけになるだろう。

 

そして日本人はまともに読み書きできる人材でさえ忌避し続けると思う。