安倍晋三の国葬がようやく終わった。はっきり言ってさっさと終わってほしかった。インターネットはバズがバズを呼ぶので国葬がずっと話題になっていてうざいなあと思っていた。最近できたはてなブックマークのミュート機能があって良かったと思った。
安倍晋三の国葬は日本の現状をよく表している。事前にルールを決めていたエリザベス女王の国葬とは違って、死後すぐには対応できず、数カ月間準備がかかった上、ここでも予算の大きさでグダグダと批判され、国葬自体どうなんだと議論が湧き上がって、安倍が関与していた統一教会問題が噴出したおかげで、反対派が増えて、G7のトップは全員キャンセルして、なんだか自民党主催の葬式と意義は変わらないような感じになった。
国葬賛同者は岩盤支持層がいて大雑把に選挙に行く国民の1-2割ぐらいではなかろうか。その他は反対派か、僕のようにどうでもいい人たちがほとんどだろう。そして賛同者が国葬に拘る理由というのは名誉とメンツだ。彼らが本当に見たかったのはエリザベス女王のような名誉ある葬式で、名誉の本質とは様々な国のトップがわざわざコメントを発表して葬儀に参加し、沢山の人が花を持って列をなす姿だったのだろう。現実はエリザベス女王の30時間待ち献花とは違って、それなりにスムーズであったようだし、交通規制も24時間以内で日常に戻りそうだし、ようやく安倍晋三という人が歴史の中に消えたな、という実感がある。エリザベス女王とくらべて、あまりにもこじんまりとしているのでレジェンド感がまったくない。
安倍晋三支持者たちが本当にほしかったものは「日本ここにあり」とでも言う偉大さだったり名誉だったりするもので、反対派に噛みつくのも、国民全体がうねりを上げるような支持と盛り上がりや一体感が欲しかったのに、ただただ分断が可視化されて惨めで、ほどほどに支持者がいる、反対派もいる、という普通の現実が見えちゃったからかもだ。
まさしくサッカーワールドカップでベスト8をかけるときの一戦のような、視聴率が70%を超えるような国民全体の盛り上がりがほしいんだろうな、と思った。支持者だけで悼みたいなら国葬にする必要もないからだ。国葬は国全体を上げて弔ったんだという歴史的根拠にできるが、ネット全盛の現在においては、ぐだぐだで支持も低いまま強引に実行したという事実のみ受け継がれていく。なんだかなあ、である。
保守派が本当に求めている偉大な日本の自画像みたいなのは、アプリで加工した写真のようなものだ。実物は程遠くそうなる可能性も見えない。これは東京オリンピックにも通ずる。保守的な人たちは、偉大な日本を示したいのだけれど、蓋を開ければしょぼい開催式、いまいちで平凡な会場、ほどほどの盛り上がり。何でそんなお金がかかったんですか。
安倍晋三死後、庇護者をなくしたことによって後から出てくる不正と逮捕者。結局これだったんですね、という裏切りとやるせなさ。支持者たちは純粋な気持ちでもていたんだろう。でも指導者たちはお仲間と私腹を肥やしてきた。10年続いた安倍政権も同様に、中国韓国など反日的な連中に物申すスタイルだったのに、死後出てきたのは韓国の宗教と癒着して貢ぐという滑稽な姿。奇しくも愛国者の安倍より彼を殺害した山上のほうが、より日本の膿を出すことに貢献してしまった。保守よりも保守殺しのほうが、より良い社会へ踏み出す結果となった。昨今の日本っぽい間抜けさだな、と思う。
俺たちの安倍は偉大だった!という押し付けにしらける。お仲間たちだけで盛り上げるのはダメなんでしょうか。どうしても「国葬」として国を挙げて葬ったという根拠が欲しかったのだろうか。今となっては統一教会と癒着していた政治家集団のトップという形に評価はおさまるわけで、いいとこも悪いとこもあったんだろうけど、支持する人はいるんだから、その人たちにとっては偉大な指導者、ってことで丸く収めませんかね。
今後の日本によいことがあるとすれば、安倍晋三の後継者がいないことだ。彼ほど偉大な日本を押し付ける支持者を取りまとめることに長けた人はいなかった。岩盤支持層にも理想があるのだろう。彼のように十分な血筋と盤石な政治環境を持ってる人はいない。自民党議員はたくさんいれど、彼ほど極右界隈を取りまとめれた人はいない。彼はそういう意味では歴史的だったと思う。