フロイドの狂気日記

時は流れ、曲も終わった。もっと何か言えたのに。

PR

藤本タツキ「チェンソーマン」の魅力と「ルックバック」評

PR

デザイン盗作・「ルックバック」の藤本タツキは天才ではない。あるいは少年ジャンプの才能枯渇問題 - フロイドの狂気日記

集英社作家の「オマージュ宣言」はアイデア収奪の正当化 - フロイドの狂気日記

id:lady_joker氏への手斧。あるいは天才・藤本タツキとエンブレム佐野の違いについて - フロイドの狂気日記

 

藤本タツキチェンソーマン」と一部に読み切り「ルックバック」について語る。本当は語ることはなかったんだけど、藤本タツキ天才論を否定しているだけなのに、作品全部を否定していると感じられたっぽいので、ちゃんと魅力について言語化してみようと思う。ファイアパンチは1巻しか読んでない。

 

ちなみに冒頭のエントリlady_joker氏への手斧では、ほとんど全て「チェンソーマン」主人公デンジのセリフや口調を改変して記事ができている。にもかかわらず、1人以外に指摘した人がいなくて悲しい。藤本タツキは天才!で盛り上がってるから、チェンソーマンネタも通じるかと思って、ブコメがデンジやパワーちゃんっぽいコメントで溢れることを期待したら、皆アオリ散らかしてるだけだった。多分君等、チェンソーマン買ってないだろ。天才だと思う漫画家の過去作読みたくならないのか?

 

以下肝心な部分は隠した上でネタバレありだ。

 

■「チェンソーマン」で書かれる心の変化と憎悪の向き合いかた

チェンソーマンとは悪魔や魔人(悪魔と人間のハーフ)がうようよいる世界で、主に日本の公安と所属のデビルハンターが悪魔退治しながら日常生活と治安を維持する物語である。世界にとって最も驚異である「銃の悪魔」を倒すまでの道のりというのが筋書きだ。主人公デンジは特殊なチェンソーの悪魔であり、普段は人間だが胸の紐を引っ張るとチェンソーマンに変身する。孤児だったデンジは貧しい生活しているところ、公安所属のマキマに拾われて悪魔退治の仕事を始める。

 

基本的に主題の一つとして「憎悪の向き合い方」が書かれている。デンジの同居人であり公安所属の「アキ」は復讐のために銃の悪魔を倒すことを諦めない男だ。この男は憎悪ドリブンで生きており、復讐以外のことを全て捨てている。一方でデンジはささやかで平凡な暮らしやちょっとした贅沢をしたいだけの欲望ドリブンのキャラだ。これは終始対比的に描かれている。

 

かなり強調されていると思うのだが、デンジはどんな強敵にあっても憎悪で戦わない。平凡な暮らしをしたいために、公安の仕事をし、全編を通してほぼ焦らずに敵を倒すために戦う。アキは家族を殺した悪魔が憎くて仕方がないが、デンジは特に何も感情を持ってない。”心がないかもしれねえ”ということに悩むシーンなどが何度もでてくるが、次のコマでは別にいっか、とばかりに忘れてしまう。

デンジには”心がない”というのはテーマだ。チェンソーマンはそれぞれの心と感情にフィーチャーした作品といえる。デンジだけではなく、アキや姫野先輩、マキマやコベニといったキャラがそれぞれの理由で公安に所属している。

 

アキのバディである姫野先輩はアキのことが好きで、彼には死んでほしくないと思いながら戦い、アキに復讐以外の人生があることを悟らせようと努力する。アキの心を動かそうとするのだ。デンジとともに魔人退治をしていくなかで、最初の強敵「サムライソード」が現れる。これはデンジと同じ人間でありながら、悪魔に変身できる能力を持った特別な敵だった。彼もまたデンジに復讐をするために戦いを挑みにきた。この章の中盤で藤本タツキの持ち味である浮遊感が垣間見れる。姫野が持っていたタバコは非常に秀逸で「アキの心を完全に理解している」ことが演出として示される。それがとても切ないものであり、ここから発売日にチェンソーマンを買うようになった。

 

「サムライソード編」が終わると、デンジは日常生活に戻る。そこに突然レゼという美少女が現れて秒で惚れる。この章は素晴らしい短編であり、チェンソーマンでもっともドラマチックな展開をする「レゼ編」だ。この章については読んだ方が良いので何も言わない。読み切りの「ルックバック」もこれにはかなわないと個人的には思う。「レゼ編」では日常生活を不自由なく生きたいだけだったデンジが自分の判断である決断をする。つまりレゼが「デンジの心を動かした」ことが繊細かつ印象的に描かれる。その結果が何なのかは見ればわかる。途中でシャークネードへの"オマージュ"がでてくるのでそこもニヤッとする人がいるようだ。

 

「レゼ編」でデンジが派手に暴れたことで、デンジの存在が日本以外の各国に知れ渡る。デンジやサムライソードのような悪魔に変身できる特殊な悪魔はレアな存在であり、強国が欲しがるのだった。そしてアメリカ、中国、ロシア、ドイツそれぞれが刺客を送ってデンジ(というかデンジの心臓)を奪うために日本に入ってくる。いわゆる「刺客編」だ。公安はデンジを奪われないように護衛をつけ戦う。マキマはドイツのサンタクロースと呼ばれる刺客に警戒しており、その強敵が主軸となって展開する。この章ではデンジよりも、それぞれの刺客と対応する公安たちの心模様が書かれる。悪魔の存在もインフレしてしまったがゆえに、面白いけど中だるみ感がでてきてしまった章ではある。とはいえやはり心にスポットライトが当てられてはいる。公安でデンジ達に戦闘訓練を行った隊長・岸辺の元バディが出現し、コミックのおまけマンガを含めて岸辺は過去に元バディの「心を動かせなかった」ことが描かれている。その他にもアメリカの刺客である三兄弟のチープな兄弟愛、末弟がそれでもミッションをこなす決意をする心模様。ロシアからの刺客である師匠と弟子の会話。ドイツのサンタクロースの持っていた秘密、全てを差し出して行き着く先がどこなのか。ネタバレになるから言わないが、デンジが戦う最大の敵は「心がない」ことが示唆されている。そして「心の完全な壊し方」が2種類ほど示されている。まあ一つはギャグだが。

 

「刺客編」が終わると公安は戦力的にも色々と失っていた。ここまで言及しなかったがパワーという終始気の狂った虚言癖でイカれているデンジのバディの心が完全に正常な意味でおかしくなっている展開から始まる最終章「銃の悪魔編」

マキマがデンジ達に「ついに銃の悪魔と戦う時がきた」と告げるが、アキは参加したくない、と発言する。デンジ達との生活の中で、アキの心が完全に変わってしまったことが示される。復讐よりもデンジとパワーとの家族のような同居生活を失うことを恐れるようになったのだ。だがデンジとパワーはやる気満々である。「銃の悪魔編」は中盤でデンジの最大の敵が現れるまでは怒涛の展開なので読んだらいいと思う。

 

 ■藤本タツキの持ち味であるユーモア

最終章にいたるまで”心がないかもしれない”と悩むことがあるデンジではあるが、それはうじうじしたものではなく、何事も気にせずあっさり忘れるというものだ。どんな強敵が現れても、ほとんど余裕をなくすことがなく、ユーモアのあるセリフをいいながら敵と戦う。

サムライソードが必殺の居合をするときも「それ、なしにしよーぜぇ」と発言したり、呪いの悪魔に殺される時も「あれれ~、身体が中に浮いちゃうよお」と間抜けな実況をしたり、「これが光ん力だああああ」とガソリンおっかぶって爆発してみたり、とにかくユーモアを忘れない。ユーモア専用のキャラであるパワーちゃんと相まって悲壮感を出さない戦いである

 

つまり軽いノリで「心がない」ことを最終盤まで強調されている。しかし「銃の悪魔編」の中盤にでてくるデンジが戦った中で最凶の敵が現れた時、ユーモアのすべてを忘れるほど苦戦する。マキマのセリフを引用するならば”心があったね”だ。この展開もまた浮遊感と余韻のある素晴らしいシーンが多数で、最大の山場となった。残念なことにここから最終回まで盛り下がる。あまり言及しないが謎めいた公安の美女マキマもまた、心に特化したキャラクターである。彼女はまるで心が読めるかのようであるが注視して読む価値があると言える。

 

■「ルックバック」でも描かれた心、そして向き合い方

 藤本タツキが終始表現したがるのは心の繊細さなのだろうと思う。少なくとも今は。ルックバックでは絵を書きまくることを恥ずかしいと思うようになる「ネガティブな心の変化」それが良いものと思える「ポジティブな心の変化」そして最終盤の殺意を向けられたあとの「心の壊れ方」「心の直し方」というのも、象徴的に描かれている。読み切りであるがゆえに語ることは少なくなるがテーマ性はある程度一貫している。チェンソーマン」と「ルックバック」で描かれてるのは徹頭徹尾内面について心の変化と、その対処方法である。それらをセリフより描写で説明している漫画といえる。

 

さらに共通点として何らかの「憎悪」への対処として「ユーモア」を上げている。ルックバックでも事件後の展開で、犯人を後ろからドロップキックするというギャグチックな展開を描いているのがわかりやすいだろう。ここで強調したいのだが藤本タツキは「ユーモア」を大事にしておりエッセンスの一つである。4コマのギャグの冴えからも理解できる。

 

そしてここまで言語化してなお、それでも藤本タツキが天才でないと言えるいくつもの理由がある。

 

■言語能力の低さ

冒頭の僕のエントリにはデンジのセリフが引用されているが、作者は天才!と評価する人たちでさえ、狂信者チックな人でさえ気づかないほど印象が薄いのだ。これがジョジョやスラダンや幽白などだと名言集が作られ引用されまくりオッサン判定機となる。絵の表現は高い反面、まーったく言語センスがない。パワーちゃんのキャラが真似されることはあるが当然語彙力と汎用性に欠ける。

 

■キャラの造形範囲の狭さ

心にフォーカスするストーリー展開は良いものがあるが、それに付属するキャラの性格造形にまったくというほど深みがない。とりわけちゃんとした大人が描けない。マキマ、岸辺や公安の面々に多数の大人がでてくるが、無口でクールな大人にしてお茶を濁している点がある。言語センスが致命的に低いので、個性的かつまともな大人が描けないのだ。そのためクールかギャグかモブかという三択になっている。

 「ルックバック」で殺人犯のキャラ造形を巡ってプチ炎上したのは、まさしくこの弱点のためだ。キャラをちゃんと描けないから単純な誤解を与えるのだ。本当は心以外の部分をきちっと絵で表現できればいいが、それができないので、キャラの拙さと相まって誤解されたり矮小化されたりする。自業自得ではあるんだけども。殺人犯のキャラ造形を掘り下げればよかったんだけど難しかったのではないか。

 

■世界観とその表現力の低さ

チェンソーマン」「ルックバック」とともに感情にスポットライトを当てた内省的な作品である。政治性であったり世間的な機微や、深い憎悪と希望の落差、平凡さ以外の日常、伏線や教訓などは皆無といっていい。非常に世界観が狭く奥行きも深さもない。天才と称される人はここが上手い。邪悪さや神聖さや教訓を描けるのが天才だが作者は今の所苦手なようだ。

 

■デザインセンスが実はあまりない

かっこいい一枚絵を描く能力は優れている。演出はとてもよい。かっこいいサムライソードはクロエネンの”パクリ”であることは別に指摘した。銃の悪魔はアバラのキャラに酷似している。かっこいいデザインはパクリがきつすぎる。

コウモリの悪魔、未来の悪魔、闇の悪魔、人形の悪魔、蛇の悪魔、ゴーストなどのデザインは不気味さはあるものの、真似したくなる造形ではない。なんだったらボスキャラもダサい。しれっとでてくる12人のかつての仲間もイマイチぴんとこないデザインをしている。人間キャラにいたっては顔の傷で差異を表現せざるを得ないほどだ。

 

■努力家ではあるけども卑怯な手を使う

今挙げた欠点を補うために彼が何をしているのか、というと大好きな映画の”オマージュ”とやらでコマと展開を埋める行為である。能力の拙さを開き直って他人の作品から拝借して物語を展開させるのは個人的に好きではない。

たった11巻のチェンソーマン最終盤で失速したように、それにさえ限界があるのだ。冨樫や荒木のような補完的な役割、物語ブーストさせるために利用しているのでなくて、欠点を補う利己的なものだと解釈している。だから長期連載に耐えきれない。かといってソレをしなければ物語を構成できないほどに漫画力が低いと言える。

 

■漫画力に対してテーマ性が過剰

「ルックバック」がそれだ。漫画家を描くのはいいが、無駄に京アニ追悼日付近で発表したり、あからさまに世間を挑発していながら、殺人鬼の造形が下手クソだったりで、能力を過信している感がありありとでている。すでに上げた欠点に世間や社会の機微が描けてないとあるけれど、その能力がないのに社会性を帯びるとしっぺ返しを食らう。若いから大胆なのかもしれないが。無駄なメッセージ性は持たせずにエンタメに徹すればいいと思います。

 

■ファンに影響力を与えられていない

ここ2-3日でバズった記事について藤本タツキ天才論者たちのブコメは全部見ている。これはメタ的な解釈になるが、それらのコメントを見ることでファンに何の影響力も与えられていないかが理解できてしまう。

藤本タツキ自身は内面ときちっと向き合うし、繊細かつ、憎悪に対しても最終的にユーモアを持って自己解決する能力のある良い人というのが僕の勝手なプロファイリングだ。そして漫画にもそのセンスが現れている。

しかし読んだファン達はそのエッセンスを取り入れようとしない。例えば僕の書いた強い言葉の文章からもネガティブな憎悪を抽出し、煽り、誹謗中傷し、それらにstarをつける。コメントの中で、デンジっぽいコメントを見つけられたのは1件だけだった。ほとんどのコメントは藤本タツキの漫画的試みとは真逆である。

 

ようするに漫画力が拙いから、ファンは何かしらんけど天才!としか言えずに、本質的な影響力を与えられていないという結論になる。ちゃんと言語化できるファン層を獲得できていないのが何故か、というと言語化できるほど熱意があり、かつ労力をかけたがるファンはこの漫画がほどほどのエンタメであることを理解しているからだ。面白いけど細かく書くに値しない、というわけ。さらっと読むと面白いし買う価値はあるが、真摯に語るほどの中身はないよ。だからすげー!すげー!と鳴き声ばかり発される。おまけに否定されたらただキレ散らかしてユーモアで反撃もできない。

 

藤本タツキ的には憎悪にはユーモアで、と強調しておきたい。

 

■終わりに

「パクってもいいけどイキるな」と書いたのにオリジナル至上主義者だ!と解釈されたり同時代の天才!と評価してるのにチェンソーマンを読んでなさそうだったり、ユーモアが素晴らしい作品を読んだあとで憎悪表現をメンションできたりと、藤本タツキのファン層はひどい。そんなわけで「天才を知っているとアピールしたい人が天才と呼んでいる」と書いたのだ。

 

つらつらと上げた欠点は努力あっても簡単に解決できないものであり、それができりゃあ苦労しないよという類である。そして物語作成能力の低い作者に対して期待値が異常すぎとも感じる。個人的には嬉しくないけれど、藤本タツキは早晩潰れるんじゃないかと思っている。本当のファンなら長い目でみた方がいいし、過度な神格化も避けたほうがいいと思う。以上だ。

 

長々読んでいただいてありがとうございます

このブログ主にも”心があった”ことを理解していただけると嬉しいのだが……