フロイドの狂気日記

時は流れ、曲も終わった。もっと何か言えたのに。

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知識の連鎖

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人生において違いを生み出す特性としてあるのが知識の連鎖を起こせるかどうかだと思う。研究者になる人は特にそういう特性を持っていて、新しい知識をドンドンと連鎖させていく。

 

例えば一冊の本を読む。なんでもいいが、歴史の本をなんとなしに読んで見るとして、そこにペリーの黒船来日の話が書いてあるとしよう。アメリカから通商条約を結ぶためにやってきたと書いてあるが、こういったところで知識の連鎖が起こるかどうかというのは本当に人間の違いを生み出す。

 

どうしてアメリカが1853年という年代に来たのか?

どうしてマシュー・ペリーが艦長だったのか?

黒船とは技術的にどういう船なのか?

どのような航路で来たのか?

 

こういう風に疑問に思えたなら、それをきっかけにして知識が連鎖していくだろう。1853年にやってきた理由を探るならアメリカ史に入っていくだろうし、黒船という船がどういった技術によって作られたか気になったなら船の建造や地理地学、テクノロジー面に興味がわくかもしれない。

 

こうやって連鎖する人はドンドン知識が積まれていく。最初に歴史本を見ていたのにテクノロジーの分野に入っていったなんてなるかもしれない。あまり知識を蓄えられず専門性も持てない人はこういう特性を持っていなかったりする。とりあえず適当に読んではその場で消費してそこから掘り下げたり横に広がったりしない。散逸する。損だなあと思う。そして僕もそういう連鎖をしてこなくて、あまりにも知識の範囲が狭いので悲しくなった。そういう自分に気づいた。

 

掘り下げる、積み上げるというのを繰り返してきた人は強い。どの分野でも強い。僕はと言うとサピエンス全史だとか、ファクトフルネスだとか、そういう流行った本をぼちぼち読んではいるが、それが自分の視野を広げたかと言うと、そういう本を書いた理知的な人々でさえ現代社会の問題の解決策を提示することができないでいる、という現実だけを知ってしまった。

 

 

 

ユヴァル・ノア・ハラリの新作も読んだけれど、結局この人はハードな時代に対して、彼なりの手法として「瞑想」「謙虚」というキーワードを書いただけであった。つまり外の世界に対してあーだこーだ言うよりも、自分の内面と向き合うと生きやすいよ、みたいな話に着地した。考察は面白いけど、まあ分断社会をどうにかするということは不可能ということなんだろう。ファクトフルネスの作者に至っては、それでも世界は良くなっている、それがファクトだ、と強弁するのみだ。先進国の人々が没落していることを鑑みてもトータルで電気を使えるようになった後進国の人が増えたんだから世界は良くなっているということらしい。

 

僕も自分の内面に向き合うというのは正しいとも思っていて、分断社会の政治情勢に興味を持つより、自分が面白いと思えることや、テクノロジーの論理に興味を持ったほうがより豊かな立ち位置に立てるのではないかと思う。なんせ先進国の市民が史上最大の自由を手にして、慣習や古い文化を捨てた以上、それぞれのライフスタイルや考えに合わせることなんて不可能なわけで。

 

話がそれた。一つの読書をとっても知識の連鎖を引き起こすことに慣れている人はエリートに限りなく近づけるし、研究者にも向いているし、発展性もあるよ、ということなのだった。くれぐれも読んだ本をその場その場で外の世界の解釈をすることに費やしてしまうと、どうにもならない現実との間でいらぬ苦悩をするはめになるので、自分のスキルや楽しみのために知識を拡大していったほうが有意義な気がする、という話だ。