フロイドの狂気日記

時は流れ、曲も終わった。もっと何か言えたのに。

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各人の都合で分断と多様性を使い分けること

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分断と多様性ってのが各人の都合や考え方によって適宜使い分けられているな、と思った。LGBTの権利拡大は多様性であり、保守とリベラルの対立は分断であるそうな。

 

ただこの多様性と分断というのはそれぞれ党派性によって使い分けられている。

 

例えばだが、1日1ドルしか使えない人々と10ドルの人、ドル札をケツ拭き紙に使っても貯蓄がなくならない人というのを所得の多様性とは言わないのだ。これは格差とか言われたり、富裕層と貧困層の二極化だとか分断とか言われる。使えるお金が少なければ少ない人が底辺におり、上が際限ないほどいるならば、それは可処分所得の多様性であると言ってもいいのではないだろうか。現実にこれらは批判され、なるべく格差を縮めようとする政策が議論されている。

 

更に考え方の多様性も批判されるケースがある。例えば悪魔崇拝ニセ科学陰謀論、差別主義などは考え方の多様性としては認められない。こういったものは良識的な人々がなるべく排除したりしようと努力している。努力の結果差別主義者や陰謀論がすべてなくなれば、考え方の多様性も失われるといえる。それでもこれらがなくなれば喜ぶ人も多かろう。

 

日本国内で宗教や人種に根ざした自治を要望するというのは、政治の多様性が増えることだと解釈できるが、まずもって政府が許可することはないだろう。あくまで日本政府と憲法化の中で許される多様性であって、日本国自体は一つだけである。多様性を認めるとはどこまでの権限を認めるのか、という問題をはらんでいる。琉球民族アイヌ民族は存在しました、という歴史的事実は認めるが、かつて彼らが住んでいた地域を開放して、それらの民族の継承者に自治権を渡すか、というとそんなことはありえないわけだ。存在を認めますよ、ですが上位存在があります、と。

 

本気で分断を根絶しようとしている国家があって、中国のことなのだが、共産党が完全なる主体であり、その下には宗教の自由も民族自決も人々の個別の自由さえいつでも消せることになっている。彼の国では分断という言葉はない。分断を煽ろうとするなら物理的に消されるからだ。

 

分断のない国とは多様性のない国といっていい。ところがトランピストや宗教右派や頭の悪い人、自由を尊重してコロナ禍でマスクをつけない人というのを、ある種の「良識的な人々」が発見すると、分断している、と苦々しくコメントするケースが見られる。

 

良識的な人々にとってそれらは間違っていることで、間違ったことを信頼することは良くないことであり、そういう人が増えることは好ましからぬことだというわけだ。この間違っていることを指定する良識的な人々は、まるで自分たちが定義する権利をもつ上位存在であるかのように振る舞う。

 

EM菌を信じることと、キリストを信じることは同じくらい非科学的だ。キリストは存在したかどうかはわからず、神の子も神でもない。信者がそう言ってもそれは科学的に証明できない。ほぼすべての宗教の成り立ちは非科学的であり、科学で証明できない伝説に彩られている。復活もしないし水をワインに変えたり、海を割ることはできない。

 

にもかかわらず宗教多様性は認められて、税金が一部免除されたりもしている。地方でEM菌を川に流す行いが教師と生徒でなされたというニュースが出たときは、批判一色である。まったく嘆かわしいことである、非科学的伝説だらけのキリスト教を主体とした大学は認めるのだ。また幸福の科学大学は認可されなかったことなどもある。

 

これらは分断である、これらは多様性のうちに含めません、ということに反発が多いのは、彼らがその定義をご都合によって使わけているからだ。それらは暗黙の了解のうちに新しい権利確保者になろうとしており、一方で社会悪とみなされたりする。これらはなんとなくの雰囲気で決められており、多数決をとったりすることはない。とりわけ少数派の権利獲得は多数決で敗北することが決まっている。いつまでたっても多数派の同意が取れないので、LGBT否定者は時代遅れの愚かな差別主義者!と罵っての威嚇行為が行われたりもする。そうやって否定者をねじ伏せるのも歴史の必然ではあるのだが。

 

書き出したらきりがないが、何を多様性に含まれるかの明白な手続きは存在しない。気がついたら世間がそういう空気になってるので、そろそろいいんじゃないか、みたいな感じだ。高尚なタイトルに見えて社会の適当さというものが現れているのが多様性と分断というテーマだと思う。