フロイドの狂気日記

時は流れ、曲も終わった。もっと何か言えたのに。

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オタクと名乗ることが古臭くなった

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最近気づいたことがあるのだが、今の若い人の中のいわゆるオタク趣味の人たちがオタクというペルソナを名乗らなくなっているのではないか。

 

僕のもう少し若い頃は、例えば涼宮ハルヒの憂鬱が流行っていたころは、オタクをオタクとして認識する、オタクだと名乗るみたいなことがあった気がする。令和になって気づけば自分を大雑把にオタクと名乗るのはいなくなっていて、今でもオタク趣味者とTiwtterとかで名乗ってるのは地雷臭のするおっさんばかりに見える。

 

注意深く観察すると、僕のようなおじさん世代はアニオタやマンガ好き、美少女ゲーム好きをひっくるめてオタクっぽい人とみなしていたのだが、今ではゲーマー、ドルオタ、アニオタなど細分化して呼ぶことが増えている。そしてそれらの言葉は一般的ではなく、一般市民的な人たちは、かつてオタクと呼んだ人たちのことを陰キャと呼ぶようになっている。

 

Twitterではそれぞれの年代が混ざるので、観察しているとオタク弾圧を受けていた世代がペルソナを背負おうとしている景色が見られる。僕のようなハルヒ、ニコニコ、初音ミクが当時の若者の間でもてはやされて、キモオタっぽい趣味者が世間一般に認知されて普通になっていく過程にいた者たちは、微妙な気分でそれをみることになる。100万人の宮崎勤みたいなワードは若い世代は知らない。というか僕の年代でもさして知られていない。もう少し上の氷河期ぐらいの人が、その報われない人生とオタク弾圧の重なりの象徴としてメンションするのを見るぐらいだ。

 

今や映画興行収入ランクの上位はアニメ映画ばかりで、Netflixのランキングもアニメか韓ドラばかりになった。時代は変わったのだ。オタクという大雑把なくくりはもはや機能しておらず、そこに連帯感もない。声優ヲタ、アニメヲタは似た場所に立っているが厳密には違う。ゲーマーの実況者好きとVtuberもやっていることは同じでも楽しみ方が違っている。

 

オタクという言葉の代わりに、陰キャという言葉が使われるようになった。これはアニメだとか美少女だとかが好きなタイプだけではなく、消極的なインドア派であったり、根暗であったり、コミュ障なんかも含まれているようだ。そこはオタク趣味を持っていない対象にも利用される言葉だ。

 

Tiwtterで雑にオタクだとくくって批判したり、あるいは自分のことをめんどくさいオタク、と名乗っている人を見ると、きっついなーと思うようになってしまった。なんというかオッサン臭いのだ。時折、過去に弾圧された経験が蘇るのか、強烈にキレ散らかしている人もいたりする。それらはフェミニスト表現規制派などに向けられたりもする。

 

今ではイケメンで飲み会好きでアニメ好きというのが平然と成立するようになったのだ。かつて気持ち悪い人はアニメ好きみたいな偏見があったのが、気持ち悪い人とアニメなどの趣味が分離したという社会変化は特筆に値する。

 

陰キャと呼ばれることは侮蔑や嘲笑が含まれており、趣味の有無は無関係だ。古臭いオジサン世代は気持ち悪けれどアニメ趣味で連帯、みたいなノリがあったのだが、今やキモい人はキモい人である、という事実のみが指摘されるようになり、アニメを見ているかどうかは問題にならない。

 

大雑把にオタクなんですけどぉ、という名乗りには、マルクス全共闘団塊、昭和だとか、バブル、みたいななにか気恥ずかしくなる空気感が内包されている。だから僕は雑にオタクと名乗るのではなく、ちゃんと好きを言えるようになろうと思った。ゲームが好き、この漫画が好き、とか。

 

創作者にとって、アニメ漫画ゲームボカロがオタクという言葉から分離されたのは喜ばしいことのように思える。それの最後の姿がエヴァンゲリオンなんだろうとも思う。あの如何ともし難い、古いオタクたちのスタンドアローン的な連帯や、薄気味悪い人生を重ねる姿や、権威主義的な態度と作品が紐付いた楽しみ方は新しい作品ではされなくなった。進撃の巨人への感想がいかに陽キャじみていて健全かを見ればわかる。

 

陰キャ集団による作品の私物化みたいなものはついぞ見られなくなった。これを知っている僕はすごい、みたいな、インディーバンドをありがたがってメジャー行きを批判するかのような、湿度の高い評論家たちは新しくでてこなくなった。

 

代わりに石の裏のダンゴムシ的な属性は、どんな趣味とも無関係に指差しされるようになり、ジメッとした人格の持ち主たちは社会への連帯を永遠に失った。キモいだけでは連帯できないのである。