フロイドの狂気日記

時は流れ、曲も終わった。もっと何か言えたのに。

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弱者を名乗る人は弱者なのか

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ずーっと自分は弱者だと名乗る人に疑問を持っている。福祉や救いが必要な弱者はどこにいるのかと考えたとき、行き着く回答は「刑務所にいる」だった。

 

世の中には漢字の入った長い文章が読めない人がいる。簡単な足し算引き算ができない大人がいる。そういう人は家庭環境が悪く、ほとんど教育を受けないまま社会に放り出された人か、もしくは知的障害者ではないギリギリの判定で健常者として暮らしている。そういう人たちは、反社の使いっぱしりや、犯罪者となって刑務所を行ったり来たりしているという。

 

最近のはてなブックマーク界隈の弱者アピールには辟易させられる。彼女がいないから弱者だ、薄給だから弱者だ、大学中退したから弱者だ、と。この前見たのは金融資産900万円あるけど弱者だ、というのもあった。大学院まで出ておいて、博士のポストがないから弱者という人もいる。お前の知能はなんのためにあるのか。

 

弱者だと言ったもんがちアピールにうんざりだ。

 

社会的な福祉や救済が必要、という大義名分を掲げたならば、自分より報われない人を探して救済すべき、という考えに至らないといけない。自分こそが社会の最底辺だ、と言えないなら、それより下から順番に救済されるべきで、それらが救済されていないなら順番を待たないといけない。それが社会的な大義名分ではなかろうか。

 

片親で教育をほとんど受けないまま暮らして中卒、簡単な読み書きも覚束ないので、やがて犯罪者になった人と、教育を受けて大人になり就いた仕事に疲れて精神科で鬱判定を受けた人というのは、同じレベルにいるとは思わない。

 

毎日のようにブログを書いて、自分の過去のひどい記憶を披露しては、自分は弱者でございっ!とアピールし、アフィや欲しい物リストでなにかを得ている河原乞食2.0なブロガーやツイッタラーを複数名知っている。僕が思うに、そのような人が弱者でビジネスしているのを見ると、公正な世界なんてありゃあしないな、と思う。

 

というより犯罪者になるレベルの弱者ははてブロを書いたり、増田に投稿したりしないだろう。彼らはこのようなサービスを扱うだけの知能もなければ、ブログを書き続ける忍耐もない。そもそも文章の読み書きができなすぎて、生きる上の手続きさえまともいんできない人々がいる。社会正義を振りかざしたなら、そういった最底辺に目を向けるべきだと思う。はてなサービスにおける弱者議論なんて、社会問題風を装った自分本位のワガママアピール会場だ。

 

障害者手帳というのも僕は疑っている。自分は精神疾患であるという自認のもと、精神科にきちっと通い、行政の面倒な手続きに従って処置と手続きを繰り返し、「あなたは精神病です」と認定されて、障害者手帳をいただく、というプロセスはロジカルそのものだ。そのような手続きの忍耐と必要な知性と論理性を持った人が障害者を名乗るというのは社会ハックに見える。

 

チャゲアンドパーソンを見るといい。パーソンは誰がどうみても精神疾患だが、彼自身は社会や他人が間違っていて、自分を陥れようとしていると信じて疑わない。僕に言わせればあれがガチである。それに比べれば手帳を自分からもらう、という行為は正常な精神の表明だ。

 

■弱者とはまともな健常者が決めつけるもの

僕の結論はこれに達した。例えば自己で両手を失い、顎が壊れたので意思の疎通ができない人がいたとしたら、それは社会的弱者であろう。本人はそれを認めることも表明できないが、医師も福祉の人も社会も世間も、同じことを言うだろう。つまり健常者が相手を見て、福祉のフォローが必要だ、と一方的に断定できる基準が必要なのだ。

 

おかしな薬物を使いすぎて、錯乱状態な人がいる。警察がやってきて話しかけるが意思の疎通ができない、食事も取らない、排泄もできないとすれば、社会的弱者だろう。強制措置をとられて、無理やり正常化するためのプロセスが試される。

 

刑務所にやってきた受刑者に、様々な簡単な学力テストを試す。小学生レベルの知識もなく、集中力も忍耐もない。イチから再教育が必要だ、とすれば社会的弱者だろう。彼らは刑務所でまともな人間になるように、外にでてもやっていけるように更生プログラムを受ける。成功するかどうかはともかく、福祉の力が必要だ。

 

このように本当の弱者とは、本人が名乗るものではない。健常者から見て、これは本人の意思とは無関係に措置が必要である、手当が必要である、そう判断するものだ。

 

■ネットでの弱者アピールは社会の福祉システムハック

面倒な行政手続きをキチッと忍耐強く行える人間は弱者だろうか?本当に救うべきはその手続きが一切できそうにもない人ではないか。ところが、最近は、ロジカルに自分を弱者だと考える頭を持つ人が、詳細にそれを説明し、福祉予算を分捕る動きをするのが流行っている。

 

彼らはよくある家族の不和や、教育からの「ささいな」ドロップアウト、時折やってくる倦怠感などに「病気ラベル」を貼り付け、恵まれない自分を主張する。そして薄給であるのはそれらの不幸によるものだ、だから救済が必要だ、理解が必要だ、という。挙げ句に努力ができる人は、努力の才能がある、とかいう無敵理論を持ち出す。君がTwitterで愚痴り、ブックマークコメントを書く時間は病気の治療とでも言うのだろうか。

 

否定されれば、ロジカルに、正常に、長文でお気持ちを表明する。それだけの知性があることは棚に上げる。馬鹿げているなあと思う。

 

僕は彼らのことを「しみったれた人たち」「資本主義に不向きな悲観論者」だとみなしても社会システムによる救済が必要な弱者とは思わない。再起可能なものを、無理やり自己否定で可能性を潰しているように見える。彼らは自己責任論を嫌う。それを持ち出されると、Twitterの時間を減らして勉強の一つでもせにゃあならんからだ。

 

何でもかんでも自己責任じゃあなかろう。でも、悲観論をネットで広める前に、自分ができることはありゃあせんか、と探してやってみて、それをネットで書いてみたっていいじゃない。

 

無制限の努力なんてしたくない。最底辺を放っておいて、自分が何もせずに分け与えられる存在になろうとする。彼らは持ち前の知性で主張を構築する。社会正義や社会の福祉を持ち出す。だがそこに自分よりひどい待遇を救う考えはなく、ひたすら自分が救われるための理論武装だ。その時間を惜しいと思うことはない。

 

蜘蛛の糸にすがる魑魅魍魎どもめ。

糸を登る腕力と体力があるということを自覚せよ。

 

福祉や正義を持ち出すときは、自分ではなく他人のために。