フロイドの狂気日記

時は流れ、曲も終わった。もっと何か言えたのに。

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好きなことはコストゼロ

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漫画や映画、小説談義でよく問われることがある。

「好きなものを創るべきか」

「売れるものを創るべきか」

 

好きなものを創って売れるのが一番いいよね、というのが理想だがそうもいかない。芸術だ価値だとほざいても資本主義からは逃げられないので、好きなテーマで創っても売れなければ継続できない。だから読者や視聴者から人気を取りやすい作品を創って売れたら、好きなものを……と言いたいところだが、売れる作品が簡単にわかれば出版社は苦労しない。一般受けを狙って自分の好みではない物語を創った挙げ句泣かず飛ばず、ということのほうが確率としては高いだろう。

 

 

昨日自分の中で結論が出た。

何がどうあれ好きなものを創れ、ということだ。

 

誰だって一度は経験あると思う。

自分が好きなミュージシャンや創作物などについて、スラスラと一晩中でも喋れる、いくらでも文章を書くことができる、みたいなことが。どれだけ言葉を重ねても尽きることなんてないんじゃないか、という狂気地味た愛があふれる経験が。

一方嫌いなことをするときは、他人から見れば些細なことでも引き伸ばしてグダグダしてしまう。そんなこともあるだろう。

 

つまり好きなことというのは実質コストゼロなのだ。

逆は嫌いなことをするのは無限にコストがかかる。

 

なんでこんなことを思ったかというと、最近ブログ書いてないなあと思って原因を考えた。書くことがなくなったのか、というわけではなく、言葉があふれることはしばしばあるのだが、頭の中で形になった途端、書いてどうなる、と思って辞めてしまう。そこで他人が読みたくなるような値打ちのありそうなことを考えてみるのだが、なんで自分都合のブログでまで他人におもねったりせねばならんのだ、という考えに至り面倒になってやめてしまう。

 

以前は1日1エントリとか平然とやっていたのだが、いつの間にかやめてしまった。僕の好きなことは社会憎悪なので、いくらでも書けるものがあるのだが、そんなことして意味あるわけないでしょ、と冷静になる日が随分前にやってきて、それであんまり書かなくなった。

 

でも自分の開放って現実ではできないよなあと。

キャバクラに行って説教するおじさんとか、社会について語るとか一番やりたくないことだし、ブログを見るのは自由だから、強制じゃないから、社会を語るのはそこだろうと。それがストレスのはけ口になるならそうするべきだろうと。

 

社会システムを、支持されている薄っぺらい著名人を、くだらない創作物を、しきたり、慣習、文化、主義主張をもっとストレートに憎悪してもいいんじゃないか。

 

ほとんど誰も見てないブログでぐらい書き散らしたっていいじゃない。

 

とまあ、創作物ではないのだが、好きなことは遠慮せずジャンジャンやっていったほうがいい。もしこのエントリを見ている人も、迷ったなら自分好みのことにフォーカスするべきであって、他人にウケる、みたいなのは考えるだけ無駄じゃなかろうか。

 

どうせ大半は寝言なんだから