フロイドの狂気日記

時は流れ、曲も終わった。もっと何か言えたのに。

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表現の自由を守るのは資本主義。規制するのも資本主義

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こういう政治家と法の変化によって表現規制が進むという議論がスゴく多いけれど僕は規制も緩和も資本主義の胸先3寸だと思っている。ようするに金になれば規制されない。金にならないと規制されるか、自然と消える。

 

こう思うのは複数の作品の変化や売上を見たからだ。アメリカでは黒人やアジア人のバランスを考えられるようになったが、これはポリコレどうのこうのという議論ではなくて、そうした方が売れるから、というだけではなかろうか。白人大多数の時代であれば、白人を見てればよかったが、人々の意識が全体として変わり、移民も増え続けたのだから、俳優の人種バランスも変化させたほうが売れるようになった、というわけである。

 

どうして白人ばっかりなんだ?という意見が大勢でるようになったのは時代の変化であり、そしてそれに合わせた方が金になるんだからそうする、というものだ。人々の意識変化が先である、と。

 

逆に言えばごく一部の極端なフェミニストが喚き散らしても、それが多数派になりそうでなければ企業や政府の規制は行われないように思う。規制が入るのは、多数派が大なり小なり賛同した結果ということで、最終段階でもあるわけだ。ユダヤ人の虐殺なんてのも、当時のヨーロッパ社会におけるユダヤ人差別が土台になるわけで、ヒトラーが多数派にしたわけではない。多数派にヒトラーが乗っかったのだ。

 

表現の規制や消滅の最終段階に来たら、企業は古臭い表現だと売れないから表現技法を変えて、人々は古い表現を買わなくなり、政治家もそろそろ頃合いだろうとばかりに法整備する。例えばギャグ漫画の表現の中に、主人公がヒロインのスカートをめくる、みたいなのはなくなってしまった。これは人々の意識の変化で、そういう表現を買わなくなってしまった。だから作家も描かなくなり、企業もそれを求めなくなった。一部のフェミニストの成果ではなく、人々が許容範囲を自然と変えて来た結果なのだろうと思う。もちろんそこには人権派の影響がなかったとは言えないが。

 

僕という人間でさえ表現の許容範囲は変わっている。Kindleで安売りしていたスレイヤーズを全巻買ったけれど、90年代前半の作品では普通だった主人公リナ・インバースへのセクハラは見ていてきっついなあ、と思った。でも小さな胸の女性を男みたいだと茶化す表現はその当時は普通にあったのだ。懐かしいなあと思いながら読んでいたが、おもしろいか、と言われれば微妙だった。ところが2018年だかに出たスレイヤーズの最新刊ではリナ・インバースへのセクハラはまったくないし、リナ自身の暴言癖というものめっきりなくなっていた。これは同じ作品同じ作者でも時代の空気によって変わってしまうという証拠のようなものだ。表現として規制されているわけではないのだから。

 

どうして古いラノベの復活なのに、懐古厨へのサービスとしてのリナ・インバースを表現しないだろうか。きっとそれは読んでいる人だって僕と同じように「きっついなあ」と思うからなんだろう。そしてきっと売れない。資本主義が表現を変えたのだ。

 

人々の意識変化が特定の思想家たちの大声によって決まるというわけではない。もしそうなら我々はオウム真理教信者になっていたり、もっとアメリカ人のように生きていると思う。実際のところは許容範囲内の変化しか起こらず、当てはまらなければただの少数派でい続けるのだろう。

 

だから上からの規制を心配するよりは、人々の変化に注意を払う方がいいと思っている。人々が意識変化したなら、それが「ウケる」ことになり資本主義はそれを要望する。逆に言えば金にならなければ事実上の規制になるし、金になる限りは企業が何とかして規制を回避するのである。

 

そんなわけで表現規制を避けたいなら、その表現に貢ぎ続けるといい。さすればどうにかこうにかして卑しい金の亡者たちが規制を避けてくれるだろう。