フロイドの狂気日記

時は流れ、曲も終わった。もっと何か言えたのに。

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不幸はそれぞれの形をしている

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幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである

 

アンナ・カレーニナ/トルストイ

 

物を買うより何かを体験する方が幸福度が高いという話を聞いたことがある。経験則として同意する。何かいい物を買うより旅行とかライブとかの方が後から思い出したり語ったりすることができて何となく意味のある金の使い方の気がするし。物を買って捨てる日が来たときに何となく虚しくなることも多々あった。

 

行き詰まりというか、不幸がどこからともなくやってくる、というのが人生における避けられぬ壁だったりして、どうにかして対処せねばならんという。ネットとかでも見るように、ちょっとしたストレスを感じている人と、深刻な鬱状態の人とで断絶がある。カジュアルな不幸とでもいうべきものは肉食って寝たら治るかもしれない。だが極端な不安とか鬱は根本的な問題を抱えてたりしていて、ストレス発散程度ではどうにもならんかったりする。

 

トルストイの有名な書き出しが示唆するように、ネットで転がっている不幸はそれぞれ違った形をしている。幸福な人を見つけたならば、良かったね、と一言で終わらせられるが 、不幸な人を見つけたなら、それぞれに違う言葉を選んでかけねばならぬ。焼肉で不幸を解決できることもあるだろう。

 

不安感には内向的な要因と、環境的な要因がある。極度の貧困、介護や難しいタイプの子育て、病気などなど。これが解決不能だと生きるのが苦しくなる。もう一つは性格的な特徴というか考えすぎで不幸になっている人もたくさんいるかもしれない。客観的にみたらそれなりに恵まれているのに、脳内で自分を不幸にしている、みたいな。ちょうど今の僕みたいに、数ヶ月は飯食って生きていけることはわかっているが、将来のことを考えて凄く不安を感じるようになっている。極貧の人たちに比べればなんとでもなるはずなのに、脳みそが不安を作り上げている。

 

大人になってわかったんだけれど、かなりたくさんの人たちが考えすぎているんだな。考えたくない人達が、酒を飲みすぎたり、仕事を死ぬほど積み上げたり、パチンコ店で座り続けたりしているんじゃないかってわかるようになってきた。みんな1人で家にいると、知性の多寡はどうあれ、不安になってしまうんじゃないだろうか。それが嫌で嫌でたまらないから、何か依存する物を探し続けているんじゃないか。アイドル、漫画アニメのキャラ、ソシャゲに至るまで、とにかく脳みそを麻痺させないとやってられんのではないか、と。1人で静かに何もしないと、底知れぬ不安に襲われる。考えなければいいのに考えてしまう。そして不幸な気分になる。子供の頃は今よりずっと笑顔で楽天的で考える内容が夢想的というか、アニメゲームや特撮ヒーローの世界ばかりだったような。それですごく幸せでいられてたような気がする。僕はその頃の脳みそに戻りたいと思う時がある。

 

脳みそが自動的に作り上げる不安感ならマシなのかもしれない。外的要因の不幸は最悪のそれだ。僕自身今は当てはまらないけれど、親の介護だとか病気だとかを想像する日がある。あと10年以内には必ず何か、てひどい環境変化がやってくると思う。そしてすでにそれに直面している人たちがたくさんいるのだろうと思う。それは焼肉とスパで解決できるものではないのだろうな、と理解できる。

 

そんな時、その不幸な生活が延々と続くと想像すると、心底震え上がる。恐怖で頭がおかしくなりそうになる。イライラするだろうし、誰かに当たり散らしたり、ネットで悪口を書きまくるとかするのかもしれない。恐怖と不幸のスパイラルだ。案外、ネットで芸能人の悪口や金持ちへの誹謗中傷を繰り返す人たちというのは極度の不幸状態にあったりするのではないかと思ったりする。もしくは突然、普通の日本人になったりマスコミの知らない事実を知ったりする人たちも、不幸がそうさせるのだろうか。

 

大抵の不幸は金があればどうにかなる。働かずに食っていける唸るほどの金があれば、大体はどうにかなる。わかっちゃいるが、そうではないから不幸なのだろう。現代のテクノロジー社会福祉の進歩は昔に比べて生活に余裕をもたらしているはずだ。それは間違いない。昔はもっと社会は貧乏だった。貧乏人にも電気もあれば服も飯もある。それさえない人は日本ではまだ超少数派のはずだ。

 

にもかかわらず人間の不幸はとどまることを知らないんだから地獄だ。