フロイドの狂気日記

時は流れ、曲も終わった。もっと何か言えたのに。

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氷河期世代の「もしかしたら手に入った豊かな未来」という脳内地獄

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氷河期世代ルサンチマン

アストラゼネカ製のコロナワクチンが日本でも許可されたとニュースになったとき、制限として40代以上だけを対象とすることが報じられた。このニュースに対し、氷河期世代を名乗る人たちが、いつも自分たちだけが損をさせられる!と怒り狂っているコメントを多数見た。

 

補足すると、ファイザー製、モデルナ製がコロナに対して有効性が高く副作用も少なく、アストラゼネカ製は血栓ができやすく死ぬ可能性があり、対コロナ効果も2社に対して低いという情報が広く知られていたから反発があったということだ。その後、モデルナ製には異物混入があったとニュースになったし、ファイザーは有効性が劣ると報告があったりした。

 

僕がここで言及するのはワクチンの有効性ではなく、氷河期世代が恵まれない!と反応を示したことだ。有効性で言えばアストラゼネカも非常に優秀なワクチンであり、途上国ではあまり手に入らないのでロシア製、中国製のワクチンが摂取されている。つまり、日本はファイザー、モデルナだけでなく、アストラゼネカという優秀なワクチンが選べる恵まれた国家と言える。にもかかわらず、氷河期世代が「なんで自分たちばかり、(劣っていると言われる)ワクチンしか打たせてもらえないんだ」というルサンチマンを発露したことは非常に興味深い。

 

これは「上の世代」はファイザーやモデルナ製品という良質なものを手に入れたのに、「氷河期世代」は後回しにされた挙げ句、劣った製品を回されるのか、という世代間闘争に見えた。

 

この意識差は非常に強い。総合的に良いものを手に入れても上の世代がもっと良いものを手に入れることに怒りを感じる精神だ。

 

氷河期世代とそれ以降の世代の意識格差

ときおり氷河期世代がネットで爆発させる静かな怒りは彼らの人生だけではなく、上の世代が手に入れて来たものへの嫉妬がある。氷河期世代は数が多く大学など競争が激しかった割に、バブル崩壊後の大不況のせいでまともな就職ができなかったり、フリーターがイケてる生き方とかいう広告マンたちの宣伝にまんまと騙されて搾取されまともなキャリアが描けなかったりしたという現実がある。

 

だが冷静に考えると、バブル崩壊以降はずっと不況だし、派遣社員なんかも一般化したし、リストラも珍しいことではなくなっていた。つまり氷河期世代だけでなくそれ以降の世代も恵まれているとは言い難い。とはいえそれ以降の世代が世代そのものを理由にルサンチマンを爆発させている姿はあまり見ない。

 

根本的に彼我の違いは、生まれた時代に起因する。氷河期世代の怒りが大きいのは、少し上の世代がお立ち台の真ん中で踊れたような経験をしているからだ。就職先がありすぎて、海外旅行で接待する、みたいなことが本当にあったらしい。佐川急便が今の倍ほどの給料で働き、タクシーの運ちゃんが万のチップを受け取るなど、考えられない豊かさを享受していたそうな。

 

氷河期世代にしてみれば、生まれが数年違うだけでも人生の結果や体験が大きく変わったと感じても仕方がない。しかし僕のような30代前半より若い人たちは、バブルというそのものは歴史であって、伝説のようなものである。手に入れられたかもしれない、などと感じることもない。確かに存在した熱気なのだろうが、想像することもできない。ジャンルで言えば、戦時中の厳しい言論統制時代だとか、明治維新を勉強するようなものだ。生まれて物心がつく頃にはバブルは弾けて、大不況時代を子供として過ごし、成人するころには格差が広がりリーマンショック不況などもあった僕らは、不況が当たり前であり、恵まれないことが普通である。就職とか大学進学を選べる頃には「年収300万時代を生き抜く」とか言う本がヒットしたりしいていた。氷河期世代との違いはここだろう。

 

我々より下の世代に「手に入ったかもしれない豊か未来」などというものは存在しない。今の貧困時代を普通に生きていく、という意識が根付いている。氷河期世代はもう少し時代が違えば、あるいは親世代が団塊というトータルとしてもっとも恵まれた世代だったりすることもあって、自分たちだってああいう体験ができたはずだ、という可能性をリアルに感じているようだ。だから時折不満が爆発する。

 

■恵まれた氷河期世代

これは個別の家庭次第でもある。しかし全体として氷河期世代の親は豊かである。5080問題がその際たる例で、氷河期世代ニートを年収、退職金、年金のある親が面倒をみていて、親が死んでしまったら生きていけないという。だが、その数十年に渡って働かないで生きてきたのは恵まれた証拠にほかならない。もちろん彼らの中には、不況や競争社会やブラック企業で働く中で精神が壊れてしまった人も多いのだろうが。

 

今の若者は親が貧困なので、後進国のように親の面倒を子供がみるという羽目になる可能性は高い。自分自身が貧困なのに親も年老いてしまうのだ。そして金もない。その未来を薄々気づいているから、豊かな親を持っている氷河期世代に同情できないという現象がある。

 

氷河期世代が「手に入れられたはずの豊かな未来」「実際にそれを手に入れた身近な年上」という2つの過去のリアルに縛られている以上、今ある確かな貧困に加えて、脳内の地獄に苦しめられ続ける、ということだ。

 

氷河期世代は切り捨てられるという社会合意がある

下の世代に言わせればそれでも90年代の方がましだっただろう。平均年収もGDPも高かっただろう、と言う。親世代は年金も退職金もある人が多いじゃないか、と指摘されれば反論できまい。今の若者は親も貧乏で、自分たちの年金保証もないんだぞ、と。30年以上もニートできた恵まれた奴らが何だというのか、と。公務員だって派遣社員だらけなんだぞ、と。こうなると不幸自慢、奴隷の鎖自慢の始まりだ。

 

上の世代はそれでも自分たちより豊かな時代を生きたんだから、失敗者は甘え、と感じられやすい。怒りを爆発させる度に、氷河期世代というラベリングがある故、煩わしく思われ、比較的豊かな時代を生きてきた癖にこの野郎、とうんざりされる。若い人たちとは連帯がとれないのだ。

 

そしてギリギリの椅子取りゲーム内で、彼らの席を奪うインセンティブがある。氷河期世代の医療費を削減し、寿命を減らすことで下の世代の負担を減らせるという大きなインセンティブがある。とりわけ子供のいない独身者相手ならなおさら。

 

誰もはっきりと言わないがみんな気づいているように見える。弱者を切り捨てればいいのではないか、という社会合意。

 

■れいわ新選組と維新の会の支持率の差

みんなを救うと言うれいわ新選組の支持はあまり広がらない。様々な理由はあるが、自己責任論を内包させつつある日本人には響かない。有権者のほとんどからすれば、そんな財務的根拠や力などないでしょう?と看破している。

 

一方で維新の会やあるいは自民党がやるような、弱者切り捨て政策は組織として盤石な支持を得ている。なぜなら、今弱者を切り捨てれば、将来の自分の負担が減るかもしれないというのが確かな可能性があるからだ。

 

氷河期世代は言う。今福祉を切り捨てられると、将来の自分が辛い思いをするんだぞ、と。正論に聞こえる。だが今福祉を切り捨てれば、働かない奴らが死んで、働く我々の負担は減るじゃないか、というインセンティブがあるのではないか?とも考えられる。福祉切り捨てによる負担軽減は確実に思える。どちらかというと福祉増大による税金上昇は確定路線であり、あなたを救うという言葉は税負担増加とトレードオフであることも間違いなく理解されている。極端な弱者にならない限り、ワーキングプアを続けるのだから、救われない人生に思える。

 

このダブルバインドは日本全体の崩壊まで続くだろう。金がなくなり福祉が完全に破壊され、誰もが貧乏に耐える羽目になったとき、ようやく貧乏人の誰もが認め合うことができる、というような。

 

■弱者を支えるのにうんざりする弱者と富裕層

糸井重里Uber配達員をさして「清潔感のルールない」とtweetしたことで叩かれた。富裕層の意識が集約されているようだ。ウーバー配達員は現代の不安定貧困層の代名詞のようにも言われる。彼らは安月給なのは間違いないので、小綺麗な服は買えないかもしれないし、一日中自転車を漕いでいれば汗だくにもなるだろう。そんなことは富裕層には見えない。清潔感、礼儀、時間を守り、粛々と働けと言わんばかりだ。貧困層の苦悩など知りはしないだろう。

 

働く貧困層は年々上がる税金にうんざりしている。彼らは生活保護を受けるほど困窮してはいないが、手取りが減ることに怒りを感じる。ADHDだ障害だ極貧だ、という人たちがいる以上、まともに働ける人たちは直接的にフォローされない。自分がそうなったときのためだ、というのは正論だろう。だがそれらも可能性の問題で、大半は死なない程度に働き続けることになる。つまり保障があっても使わない可能性と、さらに保障が必要になる年齢まで福祉が続くのかという不安もある。現在の高齢者がさんざんっぱら医療年金を使った挙げ句、財務省が白旗を振る可能性は十分ある。国家にぶん投げられて、自分の番が来たら、そんなものありませんよ、と。そうなるぐらいなら若く働けるうちに社会保障を削ってくれたほうが、高齢者になったとき多少の保障が残る、という方向性に傾くほうがクレバーかもしれないのだ。

 

■世界的な流れ

中国では政敵の失脚による財産没収や、やはり政敵の子分の金持ちに何らかの規制をしかけて金を巻き上げるやり口で、格差や資本主義批判をしている。ヨーロッパはGDPRなどの情報保護規制とその違反の罰則金で巨額の金をGAFAなどから取り立てる手法が目立つ。アメリカではバイデンが超富裕層への税金をあげようとしているそうな。あるいは超国家的に法人税を取る案も注目されている。

 

やり方はそれぞれだが、金持ちから金をぶんどるというのは各国政府も考えている。それらは下々の民に分配されるのだろうか。それはワーキングプアを助けるほどのものか。わからない。少なくとも本邦では自民党である以上、金持ちや経営者は優遇され続けると思う。

 

■資本主義下の格差縮小はありえるのか

ひとまず貧乏人は金持ちを批判して税金を取れ、という合意は得られそうだ。世代間を超えて金持ちからとってしまえと言うのはわかりやすい。金持ちは何だかんだで少数派だからだ。だが投票となると結果が違っている。まず貧乏人のくせに投票に行かないというのが多い。経営者金持ちお友達優遇の自民党は勝ち続けており滅多に負けることはない。負けたとしてもそれでも政府運営をできる程度である。

 

金持ちから取れ、というのに政府は自民党、ということがずっと続いている。僕が出した結論は貧乏人は貧乏になりたくてなっている、というものだ。ありとあらゆるお膳立てをしている選挙にさえ行かないのに、もっと大きな個人の貧困問題を解決できるわけがないのだ。そんな人達が極貧生活になったとして何だというのだろうか。

 

日本ではほとんど全員が貧乏になってからでないと何一つ気づかないのかもしれない。あるいはアメリカと比べれば格差が深刻ではないので意外と今の生活に満足している人が多いのかもしれない。貧乏と格差はネット上のノイジーマイノリティなのか。

 

少なくとも次の衆院選参院選次第で、日本の格差や貧困対応の方向性は決まっていくのだろう。ここで比較的格差に理解を示す立憲あたりが議席を伸ばしてくれればいいのだが、案外自民が勝ってしまうのかもしれない気がしている。

 

■まとめ

「手に入った豊かな未来」は存在しない。それらは妄想だし、歴史だし、自分たちの景色ではない。日本人は貧困時代を長く生き続けるのだから、過去にありえた豊かな未来が手に入れられたはずだ、などという考えは捨てて、今を何とかする前向きな考えを持って個人的に金を稼ぐ事を考え、ちゃんと選挙に行くしかないと思っている。